「マティアス&マキシム」ネタバレレビュー・あらすじ:「わたしはロランス」のグザヴィエ・ドランが帰ってきた!

グザヴィエ・ドランが帰ってきた! という映画です。 

帰ってきたというのは自分のやりたいことを思う存分やっているという意味で、映画のつくりは「わたしはロランス」に近いものがあります。実際、製作、監督、脚本、編集、衣装、モンタージュを自らやっており、その上出演までしています。

 

マティアス&マキシム

マティアス&マキシム / 監督:グザヴィエ・ドラン

 

前作の「ジョン・F・ドノヴァンの死と生」ではかなり苦労したようで、2018年5月のカンヌに出品予定のところ、出来に納得がいかずに結局9月のトロントでのプレミア上映になったとのことです。

 

実は上のリンク先の記事に

このラストシーンがグザヴィエ・ドラン監督の今(2016年あたり?)の心情を現しているものだとすれば、次回作はまた新しい何かを見せてくれるのではないかと思います。
「わたしはロランス」のような外に開かれた物語を期待しています。

と書いており、その通りの今作ということで(私としては)内心にやにやしています(笑)。

 

それにしてもこの「マティアス&マキシム」もその翌年のカンヌで上映されているわけですからすごいですね。創作意欲がみなぎっているのでしょう。

 

物語は、幼馴染のマティアス(ガブリエル・ダルメイダ・フレイタス)とマキシム(グザヴィエ・ドラン)の友情と愛情をめぐる話ということで、無理やり出演させられた劇中映画でディープキスしたことからそれまで眠っていた感情が呼び覚まされ、その感情(欲求)とそれを抑え込もうとする潜在意識の間で苦しむという話です。

 

ふたりは30歳、マティアスは弁護士で婚約者がいます。マキシムは12日後にオーストラリアへ旅立ちます。おのずと12日後には何らかのオチがつくという設定です。

マキシムは自分がマティアスに惹かれていることに気づいているようにみえます。オーストラリア行きもその気持を抑え難くなってきているので自ら遠ざかろうとしているようでもあります。劇中映画への出演についてもマキシムはあっさり承諾します。

マティアスの方は映画出演を執拗に拒否します。劇中映画の一度のキスで気づくということも考えにくいですし幼馴染ということであれば、マティアスも本当は気づいているけれども抑え込んでいると考えるのが自然かと思います。

 

ということであれば、このふたりの心の揺れ動きはおおよそ想像がつきますので、それをどう見せるかに映画の出来不出来はかかってくることになります。

 

ドラン監督が取った方法は、ふたりの周囲を騒々しくすることで逆にふたりを視覚的に静寂の中に置き、その実、まわりの騒々しさの波動のようなものをふたりの内面に反映させるということのようです。

 

ふたりには数人のかなり親しい男友だちがいます。いわゆる悪友というやつでマキシムがオーストラリアへ行ってしまうということもあり、映画としては毎日のように集まってパーティーをやっているようなつくりになっています。集まれば当然言葉が乱れ飛ぶような仲ですし仲間の身内話のようなことでもあり、次から次へと言葉が発せられてとても字幕じゃ理解しきれません。

 

こうしたシーンは、カットもかなり細かく割られておりかなり力を入れて撮られたシーンだと思います。ただちょっと苛つきます(笑)。

 

苛つかせるのもひとつの狙いかも知れません。さらにそこに世代間ギャップの苛立ちみたいなものを取り入れてまわりを波立たせます。

 

マティアスとマキシムがキスをすることになった理由は、友人の妹が映画を撮っておりそれに出演することになったからです。キスシーンを嫌がるふたりに妹が挑戦的に言います。

「あなた達の世代ではあり得ないことかも知れないけど、男ふたりでも女ふたりでも同じことでしょ。」(のような台詞)

また、その妹の言葉は、若者言葉という意味合いだと思いますが、英語混じりらしく、頻繁にフランス語で話せと言われています。

 

つまり、30歳のドラン監督にしてすでに10代とのギャップを感じる時代になっているということでもあります。

 

母親世代との関係も映画的には重要です。一般的にはこの世代ともギャップとして描かれることが多いとは思いますが、ドラン監督の場合は過去の映画でも母親(マザー)との関係を描いた映画が数多くあり、ある種共依存的な関係として描かれます。

 

マキシムの母親は生活破綻者です。現在はクリーンと言っていましたが多分薬物でしょう。マキシムが金銭管理をしている状態で日々様子を見に行っています。しかし、母親はその状態に苛立つのでしょう、面と向かえば必ず言い争いになり、ライターを投げつけられ額から血を流していました。

ただ、そのマキシムもマティアスの母親との関係は良好です。全体として母なる存在との共依存関係が示されているものと思われます。

 

それにしても、その母親たちの集団の賑やかしいことといったらすごいです(笑)。もちろん意図的に描かれているわけで、日本的感覚からしますと大阪のおばちゃんイメージなんですが、ただ嫌味なく描かれていますのでドラン監督としてはそうした母親世代に悪いイメージはないのでしょう。

 

ということで、ふたりの周囲の人間模様は、男友だち集団に、世代間ギャップに、母親との共依存関係に、そうそう女性の存在もあります。

マティアスの婚約者サラはマティアスの異変に気づいています。気づいている以上の深い描写はありませんが、マティアスの葛藤の苛立ちをぶつける相手となっています。可哀想とは思いますが、この映画の場合はいわゆる男女の力関係としてそうした行為があるわけではなく、近くにいる存在であるが故ということであり、マキシムが母親と言い争いになることと同様の関係ということです。

 

マキシムが働いているバーのリサも役割としては小さいながらも重要な存在です。マキシムに好意を持っている、あるいは付き合っていた存在かも知れません。

 

こうしたまわりの人物たちの、どちらかと言いますと慌ただしい描写の中で、マティアスとマキシムの、感情(欲求)としては越えたいけれども潜在意識としては越えてはいけないという葛藤や心の揺れ動きをふたりのアップを頻繁に使って最初から最後まで描いている映画です。

 

ただシリアス一辺倒というわけではありません。たとえば、キスしたその夜、屋外のシーンになり突然風で落ち葉が舞い散り、室内のろうそくの火が消えたり、ふたりがついにともに望んでディープキスやら抱擁を繰り返すシーンでは突如雨を降らせて別室の友人たちが慌てて干し物を騒ぎながらしまいこんだり、気になるがゆえにマキシムに当たるマティアスと友人のひとりが取っ組み合いの喧嘩になりマティアスがひとり帰ろうとするシーンではかなりオーバーに落ち葉を舞い散らせていました。いよいよマキシムがオーストラリアに旅立つ直前には雪(だと思う)まで舞い散らせていました。

 

こうした手法は「わたしはロランス」からのものですし、同じく音楽の使い方もそうです。ドラン監督はすでにヒットしていたりよく知られている曲をとてもうまく使います。

 

 

結局、ふたりの関係は熱い抱擁からさらに進もうとしたその時、マティアスがなぜこんなことを…と一線を越えられず、マキシムが、旅立つ前にふたりで過ごしたい、気持ちを整理したいと語りかけますが、マティアスは何も答えず去っていきます。

 

マティアスは、シナリオ段階ではもう少しエリート臭の強い人物なのではないかと思います。弁護士ということもありますが、映画の中で仕事をしているシーンがあるのはマティアスだけですし、友人たちとの会話でも間違った言葉遣いをするとすぐに訂正したりする人物としてやや浮いた存在として描かれています。

ただ俳優のキャラクターからなのかその設定ほど押し出しは強く感じられず上司とのやり取りのシーンでもどことなく自信なげにみえます。

 

トロントからやってくる弁護士ケヴィンとのシーンは面白いんですが何を意図しているのか分かりづらいですね。ドラン監督にカナダの英語圏への何かがあるんでしょうか。とにかく奇妙な人物になっています。

 

ちなみにこの俳優のハリス・ディキンソンさんは、ドラン監督がこの映画をつくるにあたって影響をうけたという映画のひとつ「ブルックリンの片隅で」で注目された俳優さんです。映画の冒頭に「Joel, Luca, Francis et Eliza」と表示されたのはその監督のエリザ・ヒットマン監督であり、他の三人は、ジョエル・エドガートン監督「ある少年の告白」、ルカ・グァダニーノ監督「君の名前で僕を呼んで」、フランシス・リー監督「ゴッズ・オウン・カントリー」ということです。

 

他にも、やたらタバコを吸うことやタバコのポイ捨てが何かを意図していることは間違いありませんが図りかねるところです。

 

映像面でもいろいろなことをする監督ですが、この映画では物体で視覚を遮ってスクリーンをマスクしたような状態をつくったカットが頻繁に使われています。ただ、映画的にどんな効果があったかは定かではありません。また、カメラを突然外に出したりするシーンも多かったです。室内で皆で騒いでいるシーンがあるとして、突然窓越しの外からの引いた画に変わるというようなことをやっています。

 

マキシムの顔の痣が目に残ります。おそらく社会的規範として言葉にしづらいこと、言葉にすると差別的になりやすいものの象徴なのだと思います。同性愛も然りです。実際、マティアスが友人と取っ組み合いの喧嘩になった時に、マキシムにアザ野郎といった言葉を侮辱的に投げつけています。その自責の念が逆にマティアス自身の重い心の蓋崩壊のきっかけとなり、マティアスから求めに行くという使い方がされています。

 

で、ラストは、マキシムの旅立ちの日、住まいを引き払い玄関を開けて屋外に出ますと目の前にマティアスが立っています。マティアスは友人としてのマティアスの笑顔を浮かべています。

 

おそらくドラン監督、とても楽しくこの映画を撮ったんではないかと思います。

 

次はどんな映画を見せてくれるのでしょうか。

 

わたしはロランス

わたしはロランス

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