そんなには褒めないよ。映画評

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「ある少年の告白」(ネタバレ)同性愛は治療すべきものというおぞましき思想、信条

「Conversion therapy」矯正セラピーと訳されていますが、同性愛者や両性愛者を異性愛者に矯正するという、いったいいつの時代? と思うような話ですが、原題(Boy Erased)と同名の回想録の著者ガラルド・コンリーさんが「Love In Action」へ送られたのは2004年のことだそうです。

 

ある少年の告白

ある少年の告白 / 監督:ジョエル・エドガートン

 

さらに驚くことは、現在でも同性愛を精神疾患と考えたり、宗教的な見地から否定したりする考えが存在し、またそうした団体もあるらしく、いまだ論争の対象となり、法律で禁止しなければなくならない存在であるということです。実際、アメリカの副大統領マイク・ペンスは矯正セラピー(の団体?)に資金提供していた(している?)という話もあり、現トランプ政権はそうした考えに親和性が高いということです。

 

日本にそうした矯正セラピーのようなものが存在するかどうかはわかりませんが、「LGBTの彼ら、彼女らは子どもをつくらない。つまり『生産性』がない」の発言(月刊誌への寄稿)に象徴される差別思想は現にあるわけで、神との関係において語られる(ことが多い)矯正セラピー思想とは若干異なるにしても、差別することにおいて人を傷つける行為であることでは違いはないと思います。

 

で、映画なんですが、簡単なあらすじとしては、18歳(くらい?)のジャレッド(ルーカス・ヘッジズ)が、牧師の父(ラッセル・クロウ)とその父に常に従順に生きてきた母(ニコール・キッドマン)によって、本人の意志に反して半監禁状態の矯正セラピーに送られ、そこから脱出するまで、そして、その4年後にその体験をニューヨーク・タイムズに投稿し両親と(精神的に?)決別するまでが描かれます。

 

映画の中でもジャレッドが体験を単行本化して出版するつもりだと言っていましたが、ガラルド・コンリーさんの原作本は2016年に発売されています。

 

Boy Erased: A Memoir of Identity, Faith and Family (English Edition)

Boy Erased: A Memoir of Identity, Faith and Family (English Edition)

 

 

それにしても、映画がどの程度実際の矯正セラピーの実態を描いているかわかりませんが、本当にこんなにも陳腐なものなんでしょうか?

 

あれはダメこれはダメといった個別なことも相当陳腐なんですが、それよりもまず基本的に、強制することによって人間の内面を変える(矯正する)ということが可能だと考えることの陳腐さに、見ていても現実感がともないません。

 

強制的ということについては、人を力でねじ伏せ、言うことをきかせるということは、否定されるべきことだとしても現実に存在していますが、それはある限定的な関係内の問題であって、少なくとも人の内面に関わることであればもっと科学的実証的な方法があるように思います。そういう方法を考えないのでしょうか。それだけ矯正セラピーというものが無知蒙昧な考え方だということなんでしょうか。

 

そこで気になるのが、ジャレッドが自分自身のセクシャル・オリエンテーションをどう認識し、どう考え、あるいは悩むとしたらどう悩んでいるかがほとんど描かれておらず、何かまわりに流されるように自分はゲイだと思い始めたようにみえることです。

つまり、悩むことなく自分がゲイだと言えるのであれば、両親の言うがままに矯正セラピーに入ることなどないのではないかということです。

 

矯正セラピーなどという個人の意志に反するものは間違っているに決まっています。それを描くだけでは映画として物足りないということです。ジャレッドの苦悩が自分の存在価値を疑うまでに深まってはじめてあの陳腐な矯正セラピーを、少なくとも脱出するまでは受け入れていたということに意味があるということです。もちろん映画の話です。

 

同じような意味で、脱出局面にしても、それまでずっと我慢してきたものがついに爆発したようにしかみえません。実際、セラピーを受けることになってから脱出するまで、ずっとジャレッドはセラピーに違和感を感じているようにしか描かれておらず、たとえばこれは受け入れるべきものだとか、受け入れなければ両親が苦しむとか、そうした描写はありません。

 

つまり、映画全体を通して見えてくることは、ジャレッドが父親に無理強いされている様子であり、また本人も無理強いされていると考えているということです。

 

ということになれば、映画が語っているのは矯正セラピーの前近代的で非人間的な行いではなく、単純な父子の確執であり、ついには息子はブチ切れ、それとともにそれまで権威主義的に振る舞う夫に従順であった妻もついに目覚めたという映画なんだということになります。

 

こうした実話ものの映画というのは往々にして映画としての出来不出来以前に、そもそものテーマについて語られることが多くなります。当然ながら映画の題材になるということは、何らかの現在的な問題がそこにあるわけですからやむを得ないこととは思いますが、少し切り分けて語るべきではないかと思います。

 

やはり映画(だけではないけど)は単に事象を描くだけではつまらなく、(たいそうですが)人間存在そのものを描くことで、より見るものに何かを伝えることができるものだと思うのです。

 

ジョエル・エドガートン監督、前作は「ザ・ギフト」でこの映画が二作目です。自分のブログを読んでみますとほぼ同じようなことを書いています。

この映画でも矯正セラピーの創設者なのか、主要な指導者なのか、サイクス役で出演しています。俳優としては「ラビング 愛という名前のふたり」のリチャード・ラヴィングはとてもよかったです。余計なことですが、俳優として極めて方がいいように思います(ペコリ)。

 

ザ・ギフト (字幕版)

ザ・ギフト (字幕版)