寝ても覚めても

柴崎友香と濱口竜介によって作られた新しい女性像、朝子。

今年のカンヌでは「万引き家族」がパルムドールを受賞しましたが、この「寝ても覚めても」もコンペティション部門に出品されています。

こうした映画祭への出品がどのように選定されるのかはわかりませんが、「ある視点」に出していれば何か受賞したかもしれませんね。作り物臭い(ペコリ)「万引き家族」に比べれば、実在感という点では圧倒的にこちらのほうが優れています。

公式サイト / 監督:濱口竜介

それにしても、これがラストシーンかと思えば、そうではなく、まだある? という思いを何度感じたことでしょう(笑)。長いという批判ではありません。ドラマにおけるエンディングのパターンをかなりはずしているのです。

で、ふと、原作が柴崎友香さんということで、そう言えば「春の庭」を読んだことがあるなあと、その時の自分の別ブログを読み返してみましたら、同じようにこれで終わりかと思えばまだあるかみたいな小説でした。ということであれば、そのあたりは原作のままなんでしょう。

さらに、ふと、このエンディングに対する違和感は、あるいは自分が男目線で恋愛物語を見ているからではないかと思い始めました。

こういうことです。(こういうことにたどり着くまで相当長いです(笑))

朝子(唐田えりか)は、ある写真展(牛腸茂雄写真展)で麦(東出昌大)というちょっと不思議な感じの男と出会い、その帰り道、眼と眼があった瞬間に恋に落ちたという感じでしょうか、お互いにとても自然にキスをします。

この冒頭のシーン、うまいですね。原作にもあるんでしょうか?

まず、朝子が美術館に向かうシーンで、子どもたちが爆竹で遊んでいるところを見せています。ん? と何となく気にはなったのですが、それだけのこととして進み、その後、美術館のシーンとなります。朝子は、たまたま見かけた麦のことが何となく気になります。そして帰り道、これもうまいと言いますか、唐田えりかさんの朧気な存在感からなのかはわかりませんが、特に意識してという感じはなく、朝子は麦の後をつけるように歩くことになります。そして、二人が左右に別れた瞬間、その間でパンパンと子どもたちが爆竹を破裂させるのです。振り返った二人は眼と眼があい、そのままくぎ付け、二人の間には爆竹の煙が漂っています。すっと近づいた麦は朝子にキスをします。

これ、小説じゃ無理ですね(笑)。多分、映画の創作でしょう。

ということでふたりは付き合うようになります。

といっても、麦という男は、茫漠とした感じの人物で、朝子の親友の春代(伊藤沙莉)に言わせれば、絶対に付き合っちゃいけない男ということです。もちろんプレイボーイとかチャラ男系ということではなく、何を考えているかわからなく、ある時ふっと消えてしまうかもしれないという意味です。

実際、ある時、麦は朝子の前から何も告げずに消えてしまいます。

そして2年後、朝子は大阪から東京に出てきています。マヤ(山下リオ)とルームシェアをし、カフェで働いています。

ある日、向かいの会社へ出前のコーヒーを下げにいきます。そこで、麦とそっくりの亮平(東出の二役)に出会います。朝子はあまりのことに声も出ません。

このシーンもそうなんですが、朝子という人物は、台詞や態度など目に見える演技という点ではほとんど自己主張をしません。麦にそっくりという亮平を前にして、上にはあまりのことに声も出ないと書きましたが、ドラマとしてはそうなんですが、演技としては、眉ひとつ動かさず、何も(演技)せず、ただ亮平を見ているだけなんです。

こうした朝子の人物像が、監督の指示なのか、唐田えりかさんの地なのか、あるいは、監督がそれを見抜いてそのままにしているのか、初めて見た俳優さんなのでよくはわかりませんが、このことがラストのラストに生きてきます。

ラスト、この映画は、唐田えりかさんの映画だったのだと気づかされます。

初めて会った女性に、じっと見つめられ、そして何も言わずに駆け去られてしまえば、誰だって気になって仕方ありません。そりゃ亮平だって(誤解して)恋に落ちます。

亮平の人物像は麦とは正反対で、気さくで人付き合いもよく、気もきき、機転もきき、隠しごともしそうもない好青年です。朝子と出会ったのは、大阪から転勤してきた矢先のことでした。

東出昌大さん、デビューが「桐島、部活やめるってよ」だったんですね。DVD視聴でしたので映画自体にもあまり印象がなく、東出さんだったこともまったく記憶していませんし、先日見た「菊とギロチン」も(私には)映画の出来のほうが気になってしまい、東出さんがどうこうまで気がいきませんでした。でも、この麦と亮平はいいですね。二役をうまく演じていました。唐田さんとは別の意味で、つまり俳優として良かったということです。

で、いつまでも避け続ける朝子に亮平の思いはつのり、ある日、亮平は「好きだ」と告白します。この時の朝子も、亮平を見つめるだけでほとんど見た目は無演技、亮平の手がそっと朝子の顔に添えられ、それに返すように亮平の顔に手を添え、二人はキスをします。

この朝子の人物像、監督の演出ですね。

この二人に絡んでくる重要な役回りの二人がいます。朝子がルームシェアしているマヤと亮平の同僚の耕介(瀬戸康史)です。

亮平とマヤとの出会いは、まだ朝子が亮平を避け続けている頃、たまたま朝子とマヤがギャラリーの前で困っている時に、通りがかった亮平が手助けして知り合っています。そのギャラリーでは麦と出会った時と同じ写真家の写真展が催されており、双子の写真があったりと何となく関連性をもたせています。ただ、全体的な映画の雰囲気作り以上の深い意味はないと思います。

で、その時にマヤが(お礼に)今度うちに来てくださいと合コンを持ちかけ、亮平にしてみれば願ったり叶ったり、耕介を連れて二人のシェアルームを訪ねます。

マヤは売れてはいませんが舞台女優です。耕介が見たいと言ったようで、マヤの出演作のDVDを皆で見ます。チェーホフの、映画を見ているときは4大戯曲のどれかだろうくらいにしかわかりませんでしたが、「三人姉妹」だったようで、マヤは次女のマーシャをやっていたんだと思います。

見終えると、耕介が突然帰ると言い出します。当然マヤは自分の演技が気に入らなかったんだと思い、見たいと言っておきながら何も言わずに帰ろうとする耕介を問い詰めます。

突然、耕介が台詞を朗唱し始めます。多分、軍人どうこうとか言っていましたのでマーシャの不倫相手のヴェルシーニンの台詞だと思います。耕介も俳優をやっていたのでしょう。(おそらく)自分が挫折した分余計に辛辣になります。誰のためにやっているのだ、何も響いてこないなどと無茶苦茶厳しく批判し始めます。

私はここで、この監督いくつだ? などと考えていました。今の感覚では、よほどキレなければ、面と向かってこんなことを言うなんてことはないんでしょうが、随分昔(いつだ(笑))はこうした批判をすることにそんなに抵抗のない時代がありました(少なくとも私は(笑))。それに、チェーホフ? この監督、舞台もやっているのかなあなどと考えていました。

話はそれましたが、このシーンも結構うまくつくられており、マヤは当然ムッとはしますが、めげることなくきっちりと相対します。朝子は、そんなことはない、私にはちゃんと響いたと言います。そして、亮平です。実にうまく亮平の人物像を描いています。

亮平は耕介に、今帰ったら一生後悔することになるぞと諭します。これが実に正論で、この場であれをあれだけ自然に言える人間は現実にはいないでしょう(多分)。

おそらく、この時、朝子は亮平という人間をかなり意識したんだと思います。

で、なぜここで、「三人姉妹」? ということですが、私はさほど深い意味はないと思います。確かに、次女のマーシャは夫がありながらヴェルシーニンと不倫をすることで現実(の絶望)から逃げようとしますが、それを朝子に重ね合わせることには無理があります。

朝子は今の自分に絶望したり、現実からの脱出願望を持っているようにはみえません。麦には麦の魅力を感じ、亮平には亮平の魅力を感じているだけだと思います。魅力のある人間に惹かれるのは当たり前で、過去に引きづられることはあるにせよ、(今は)選択する必要がないので選択しないだけでしょう。

で、その過去に引きづられる思いが、亮平に別れを告げさせます。話が後先になっていますが、合コンでのチェーホフ事件があり、その後、亮平が告白し、キスをし、おそらくその後すぐでしょう、朝子は電話で、なんて言っていましたっけ? 「やっぱり」とかそんな言葉があったのか、いずれにしても付き合えないと伝えます。

朝子はカフェの仕事をやめてしまい、亮平の前から消えてしまいます。といっても、マヤとはルームシェアしているのでしょうから、会いに行けばいいとは思うのですが、そこは突っ込んじゃいけないところです。

チェーホフ事件の後に、マヤの次の舞台をそれぞれが見に行く約束をしており、亮平は仕事の都合で朝子とは違う時間を予定していたのですが、別れを告げられた亮平は半休を取り朝子が予定していた時間に合わせて見に行きます。

またも話がそれますが、このマヤの舞台が「野鴨」なんです。その時はピンとはきませんでしたが、あとで調べましたらイプセンでした。チェーホフにイプセン? 昔でしたら(今もか?)文学座かとは思いますが、それにしてもこれは原作にもあるんでしょうかね? 

こちらは読んでいませんのでざっとググってみましたが、こちらもさほど深く関連させようとの意図はないように思います。あえて言えば、現実世界は偽善とともにあり、白黒はっきりさせようとすれば不幸を招くとでもいった感じで、まあこの映画のラストを逆説的に暗示しているということでしょうか。

かなり意図的に「野鴨」のポスターを見せていましたので、監督、あるいは脚本としての意図はなにかあるのでしょう。ただ、ひとつひとつに直接的な関連や伏線を張るということではなく、全体としての映画のトーンを作っているのだと思います。

で、「野鴨」のマチネを見に行った亮平は、劇場で東日本大震災に遭遇します。劇場を出た亮平は、人混みに押されるように進みますが、ある時、目の前の人混みがすうーとひらき、そこに朝子の姿を見つけるのです。チュクチューンとあの曲が流れそうなシーンですが、震災という背景がありますので結構抑えめでいいシーンでした。朝子が駆け寄り抱き合います。

そして5年後です。長くなりすぎていますのでラストまでは概略のみにします(笑)。

朝子と亮平は一緒に暮らし、マヤと耕介は結婚しています。朝子と亮平は毎月、被災地(仙台かな?)へボランティアに出かけています。

ある時、朝子は大阪での親友春代に出会い、麦がモデルとして有名になっていることを知ります。動揺はあるのでしょうが、例によって表情も変わりません。

亮平に大阪への転勤の話があり、それを機に亮平は朝子に結婚を申し込みます。朝子が(表情を変えずに)うれしいと受け、亮平に話していないことがあるのと、麦のことを話そうとします。亮平は知っていたと言い、自分と似ている麦の存在を知った時、出会いからのあれこれの疑問がすべて氷解したと言います。

そしてまたある時、朝子は麦が何かのロケ中の現場に居合わせます。麦の名前を耳にした朝子は、これは書いておかなくちゃいけないのですが、その時の朝子は、まさに決断した女の様相で麦が乗っているであろうロケバスに向かっていきます。

何をするかと思えば、走り去る車に向かって大きく手を振り、「さようなら、麦」と大きく幾度も手を振るのです。

ああ、やっと朝子は吹っ切ったんだと思いますわね。違うんです(笑)。ここからが朝子の映画なんです。

朝子がひとりの時、チャイムがなります。開けたドアの先には麦が立っていて、迎えに来たと言います。朝子はドアを閉め、耳をふさいでキッチンの片隅で固まってしまいます。私は、これ、妄想かと思いましたが現実でした…、ん? やっぱり妄想かな。

後日、二人の送別会です。レストランで、二人に、マヤ、耕介、春代で食事をしていますと、麦が現れ、朝子に迎えに来たよと手を差し伸べます。

ここが、これまたいいシーンで、朝子は何の迷いもなく、何かに憑かれたように麦の手を取りその場を去ってしまうのです。

残された亮平の顔が目に焼き付きます。

麦と朝子は車で北海道に向かいます。麦の携帯が鳴ります。麦は窓から投げ捨ててしまいます。モデルの仕事も何もかも、今を捨ててしまうということです。

朝子の携帯が鳴ります。マヤが、亮平さんの顔が見られないと朝子を責めます。朝子は、ごめんなさいといったかどうか記憶がありませんが、印象としてはとにかくきっぱりとしたもので、「亮平さんに伝えて。もう戻らないから私の荷物は全て捨ててくださいと。」言い、同じように携帯を窓から捨ててしまいます。

ああ、(映画ですから)朝子は飛び立ったんだと思いますわね。で、これでエンディング、終わりかと思いましたら違うんです(笑)。

朝子が寝ている間に、麦は海が見たかったんだと仙台あたりで高速をおり、海岸に来ます。(映画的には)そこが仙台であることで朝子の心に何らかの影響を与えたのでしょう。朝子は、突然、亮平のもとに帰ると言います。

すごいでしょう、これ! こんな映画見たことありません。

麦は麦たる所以で、何の感情も示さず、車乗ってきなと言い、免許ないからという朝子を置いて、じゃあとかの言葉を残し走り去ってしまいます。

朝子は、何も持っていませんから、ボランティアで仙台に来ていた際の知り合いにお金を借り、大阪(結婚して暮らす予定だった家)へ向かいます。

すごいわ、朝子! と思います。

大坂です。亮平は、帰れ! お前は最悪のことをしたんだ! と突き放します。

これこそ本当にラストシーンになるのですが、猫をうまく使っています。東京でも猫を飼っていたのですが、亮平は、猫は捨てた! もうお前を信じられないから猫を育てる力なんて残っていない! と絞り出すように叫びます。

朝子は、雨の中(だったかな?)、葦が生い茂る河川敷で猫を探します。二人の新居予定は淀川の支流の天野川と言っていましたが、確かに枚方市にありますね。

で、ああ、もうワンシーン入っていました。省略して書いていないのですが、大阪時代、麦や春代と共に親しかった友人の岡崎(渡辺大知)とその母(田中美佐子)がいます。岡崎は ALSを患って寝たきりになっています。その岡崎を訪ねます。

岡崎の母は常々、私だって若い頃は朝ごはんを一緒に食べたいだけのために新幹線で(東京かな?)男の元へ行ったことがあるという話をしているのですが、実はその相手は岡崎の父親とは別の人やと、こっそり朝子に話すのです。

このシーン、亮平に突き放され弱気になった朝子を勇気づけるような意味合いになっています。

余計なことでしょうが、これ、いらないと思います。大阪時代に、母親のエピソードを入れていますので、それを回収したいという意味合いもあるのでしょうが、ここの朝子は、もうとっくに岡崎の母親の次元は飛び越えてしまっています。

とにかく、朝子は再び亮平のもとに行き、河川敷で猫を探し始めます。亮平が何か(忘れました)叫び、家の中に入ってしまいます。追っかけてドアを開けようとしますが、鍵がかかっています。朝子は、もう一度やり直したいだったか、亮平が好きだだったか、そんな、さほど感動的でもない普通のこと(笑)を言います。

そういうところが朝子という人物像の現実感につながっていきますので、いいことなんですけどね。

カチャと鍵が開けられます。ドアが開き猫が差し出され、ドアは閉まってしまいます。朝子は、猫を抱きながら、そっとドアに手をかけます。鍵はかかっていません。二階に上がりますと、亮平がバルコニーから天野川の方を眺めています。

確か、二人を横から捉えたカット、亮平が言います。

「俺は、一生お前のことを信じられへんで。」(大阪弁)

朝子は(うん、と言ったかも)うなづきます。

恋愛ドラマでこんなエンディング見たことありません。

この二転三転のエンディングは、詳細は別にしても、おおよその展開は原作のものだと思います。その前提の話ですが、これは男には書けません。

ただ、「春の庭」を読んだ限りの、柴崎友香さんが書きそうな女性像を想像しますと、朝子はこんな透明感がある人物ではないでしょう。それにこの朝子は、麦に対しても亮平に対しても、「寝ても覚めても」という言葉にふさわしいほど執着(ちょっと違う)していません。

この映画の朝子の人物像は、濱口竜介監督によって作られたものだと思います。

いずれにしても、朝子は、きっぱり自分の意志で決断したということです。ただ、明日また新たな決断をするかもしれません。

 原作を読んでみましょう。

寝ても覚めても: 増補新版 (河出文庫)

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