月と雷

初音映莉子さんの映画です。ちょっとだけ高良健吾くんも。

安藤尋監督って誰だっけ? 安藤? 安藤サクラの姉はなんて言ったっけ?

と、そもそも名前の読み方もわからず(スマソ)、逆にそれで興味を持って調べているうちに物語が面白そうということで見ることになりました。

「あんどうひろし」さんと読むそうです。

原作の角田光代さん、結構映画化の声を聞きますがさほど多い方ではなく最近みたいですね。「八日目の蝉」はよかったです。「紙の月」は見ていません。

監督:安藤尋

現代女性の「人生の選択」を描いた小説の数々が絶大な支持を受けている角田光代。人と出会うこと、そして人を受け入れることで人生が予想もしない方向に転がっていく様を描いた『月と雷』は、角田文学の真骨頂と評される。この名作を、安藤尋監督が繊細かつ力強くスクリーンに蘇らせる。(公式サイト

面白い話ですね。原作を読みたくなりました。

ただ、面白いと感じ始めたのはしばらくしてから、智(高良健吾)が現れてからで、冒頭の智と泰子が3,4歳くらいのシーンはあまりに説明的な段取り芝居で、勘弁してよ(笑)と思ったくらいですし、その後の泰子(初音映莉子)が仕事帰りだったと思いますが、田んぼの中の一本道を自転車で走るシーンも、あ~あ、またですかなんて思いながら見てたんです。

またですかというのは、何だか私の見る日本映画って、ああいう田んぼの一本道を走ったり、歩いたり、それに、この映画でもありましたが、まわりに全く家のないような田んぼの真中にバス停があったりするんですよね(笑)。

普通あんなところにバス停なんてないでしょう。

泰子の家がここにあって、働くスーパーがここにあって、自転車で何分、車で何分、駅がどこにあって、駅からバスがどこを走って、泰子の家から何分のところにバス停があってといったことが空間としてイメージできない映画は(私には)ダメです(笑)。

それはともかく、高良くん(友達じゃないけど)、あぶない役もうまいけど、こういう何考えてるかわからない、何も考えていなさそうな役もうまいですね。

で、3,4歳の頃に半年くらい(と言っていたかな?)一緒に暮らした高良くん演じる智が、20年ぶりに泰子を訪ねてきます。幼い頃からの20年というのは相当長い期間なんですが、不思議に泰子はすんなり受け入れ、今日泊めてくれるという智を簡単に泊めてしまいます。

で、眠れない泰子は、智の布団にそっと入り、あの頃やっていたようにしてくれると言います。

えー!? 普通(この言葉この映画のキーワード)このケース、その男他人でしょう!

という感じ、実は、この映画、あまりしないのです。

なぜなんだろう?と考えてみますと、高良くんのキャラもあるとは思うのですが、それよりも泰子を演っている初音映莉子さん、この俳優さんの持ってる空気感というか、まあ演技なんですが、普通ないようなことが不思議にそういうこともあるかもと思わせるのです。

幼いころ、二人がやっていたことが何だかはっきりしませんが、おそらく上に引用した画像にあるような背中にくっつくことなんでしょう。

ただ、大人になれば、ただくっつくだけで終わるわけはありません。泰子は智の下半身に手を伸ばし、智も泰子の股間を愛撫し(ちょっとエロいというかかなりリアル)、結局体を重ねることになり、泰子が積極的に上になり、体を動かすことになります。

このシーンでこの映画は変わります。完全に初音映莉子さんの映画になります。

普通3,4歳の半年の記憶なんて20年経って引きずっていることなんて考えられません。でも、この初音映莉子さんの泰子ならあり得るかもしれないと思わせるのです。

20年前、泰子の父親が浮気をして、母は出ていき、かわって智を連れた直子(草刈民代)が舞い込んできます。これまた普通はありえないといいますか、映画でもそのように描かれていましたが、実の母は泰子に無関心だったようで、泰子は直子になつき、上にも書いたように、智とも仲良しで一緒に寝ていたのでしょう。

ところが直子というのは根無し草の、男を渡り歩く人物で、半年後にはふっと出ていってしまったようです。その後、泰子の父親はアル中となり、亡くなってしまったとのことです。

で、今、泰子は何とかまっとうな人生を生きようとしつつも、直子と智とともに暮らした半年間を引きずったまま何ともけだるい毎日を送り、それでも婚約者もでき、結婚を間近に控えているという設定です。

何度もくどくなりますが、このあり得ない設定が、初音映莉子さんによってリアルな存在として浮かび上がってくるのです。

あらすじを書くのが本意ではありませんので、その後を簡単に書きますと、智の発案で、泰子は実の母とも会うことになり、やはり自分に無関心な母を知り、むしろわずか半年であった直子との生活が自分にとって重要だったことを再認識します。

直子は直子で相変わらず男の元を渡り歩く人生を続けており、成り行きで泰子の家に舞い込んできます。

同じ頃、泰子は智の子どもを妊娠していることが分かります。

このあたり、いいのか悪いのか、結局よかったと思いますが(笑)、映画としてはあまり深い突っ込みもなく、ただ物語を進行させるだけになっており、というよりも、物語の面白さと主役二人がうまい具合に、まあそれも監督の才能なんでしょうが、淡々とではあっても不思議に面白いのです。

で、結局、直子が泰子のもとに留まるわけもなく、ある朝、家を出ていこうとします。追いかける泰子、そして、田んぼの中の一本道で二人のやり取り、えー、何でこんなところなの?と(私は)思いますが、とにかく、泰子がなぜ私を置いて出ていったの?などといったやり取りがあります。

おそらく、原作では重要なことなんだろうとは想像しますが、映画では、草刈民代さんの直子にリアリティがなく、私はミスキャストだと思いますが、草刈民代さんって、キャラとしては心のあるしっかりしたイメージが強く、かなり演技をして、たとえば目をとろ~んとさせたりして演技していましたが、私はちょっと違うんじゃないかと思います。おそらく直子は、男に自分がいなければこの女が生きていけないだろうと思わせる女性なんですよ。魅力的なんですよ。

このシーンも初音映莉子さんで持っているのでまあいいでしょう(笑)。絶賛ですね。

で、ラスト、何ヶ月か後、大きなお腹を抱えた泰子が家に帰って、智と呼びますが、智を出ていってしまっているというお話です。

泰子の顔のアップ、かすかに微笑みます。

演出でしょうが、余計でしょう(スマソ)。普通の顔で終わってほしかったですね。原作の話ではありません、映画的にです。

とにかく、原作を読もう。

ところで、「雷」は、直子が自分がふっと出ていくことの比喩に、雷が鳴るとその後ざっと雨が来るその予感として、つまり、その先(よくない)何かがやってくる予感がするので出ていくということで「雷」を語っていましたが、「月」ってなんでしたっけ? 見落とした?

こちらに原作の読後感があります。よろしければどうそ。

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月と雷 (中公文庫)

月と雷 (中公文庫)

 
月と雷

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