長いお別れ

家族ファンタジーもいいけれど、さすがにここまでくると…

さすがにこの価値観(家族観)にはついていけないなあという映画です。

映画のつくりとしては俳優で持っている感はありますが、さすがにそれも30分くらいまでで、こうしたエンターテイメント系としてはメリハリがなく厳しいです。

  

長いお別れ

長いお別れ / 監督:中野量太

湯を沸かすほどの熱い愛」の中野量太監督の商業映画二作目です。前作は物語自体も中野監督のオリジナルでしたが、今回は中島京子さんの同タイトルの原作小説があります。読んでいません。

長いお別れ (文春文庫)

長いお別れ (文春文庫)

 

物語は、認知症を患った夫であり父である男(一家の主)を抱えた妻と娘二人が、男が時折見せる不思議な行動は過去の記憶にもとづくものだと気づき、夫また父を中心とした家族像こそが帰るべき「家」なんだなあとつくづく思うという映画です。

認知症に関してきれいごとしか描かれていないこともそうなんですが、人間関係がファンタジー過ぎて現実感がまるでありません。

東昇平(山崎努)70歳、認知症の兆候が出ています。妻曜子(松原千恵子)は、その誕生日を機に、娘二人、麻里(竹内結子)と芙美(蒼井優)を呼び寄せます。

麻里は夫と中学生くらいの息子とともにアメリカで暮らしています。麻里は専業主婦、家族関係がうまくいっていない気配を感じさせており、映画が進むうちにどんどんひどくなっていきます。一番の原因は夫婦間のディスコミュニケーション、夫はそれにまったく気づいておらず、それだけが原因ではありませんが、息子は不登校になってしまいます。

芙美は生活基盤が確立できていませんし、人間関係も自分の思うようにはいきません。そもそも何をどうしたいと考えているかわからない人物で、料理という分野に創造的な才能があるようにもみえますが、オリジナルカレーの移動販売をしたり、恋人の親のレストランで働いたり、スーパーの惣菜コーナーで新メニューを考えたりと、行きあたりばったりの人生です。結婚願望もあるようで、二人の相手が登場しますが、どちらともうまくいきません。

という二人の娘、こう書きますと、それぞれ自分自身の生活があるように思えますが、映画はほとんどそこには注目していません。この映画で描かれる娘たちの姿は、父昇平との関係に於いてのみです。

麻里の家族関係がうまくいっていない描写は、昇平の娘として育ったよき家族の記憶との対比であり、芙美が自分の生き方に自信なげなのは、昇平が望んでいた娘の姿との対比としてのみ意味をなしています。

つまり、娘達二人の現在がうまくいっていないように描かれるのは、父昇平との家族観へ二人を回帰させるためのものだということです。三角帽をかぶった四人の満足そうな表情が象徴的です。

ですので、麻里の夫や息子、そして芙美がつきあう二人の男たちは、映画的にはほとんど意味がありません。麻里の息子の不登校はそれ自体としては重要なことですが、映画は不登校について何も語っておらず、ラストシーンのアメリカ人の校長の「long goodbye(長いお別れ)」をオチとするために使われているとしか考えようがありません。

ということで、この映画は、麻里、芙美、そして曜子が昇平との思い出を語り、よき家族であったと懐かしむ映画ということだと思います。

実際、映画には現実的な認知症について描こうという意識は感じられませんし、曜子や芙美はその対処に困った表情ひとつ見せません。

曜子はずっと専業主婦だったのでしょう、夫のことしか考えていないように描かれています。曜子が自分自身のことを語ったシーンはひとつもありません(多分)。昇平が嚥下障害で肺炎になり、人工呼吸器をつけるかつけないかと娘たちと話し合うシーン、いろいろ考えを言う娘たちに、お父さんのことは私が一番わかっています!と(いった意味の)啖呵を切るような台詞が象徴的です。

夫のためにだけ生きてきたと宣言しているということでしょう。そうした人生を否定するわけではありませんが、映画としてそれを悲哀なく描かれてもとは思います。

7年(だったかな?)という歳月、ほぼひとりで認知症の夫を自宅介護してきた人物を持ち上げるようなことにならないことを願います。無理ですよー。

ところで、昇平はどんな人物だったんでしょうね?

教師生活を校長で終え、育児家事にはまったく見向きもせず妻に任せっきり、家でも書斎にこもりっきりで、娘が教師の道に進むことを望み、そうできなかった娘に罪悪感を感じさせた人物だったんでしょうか…。

湯を沸かすほどの熱い愛