WAVES ウェイブス

映画が MV 化がする

新しいスタイルの映画かもしれないと期待する気持ちもないわけではありませんが、個人的にはちょっとばかり入れないタイプの映画です。

ですので、いいことは書けそうもありません。

WAVES ウェイブス

WAVES ウェイブス / 監督:トレイ・エドワード・シュルツ

いきなり批判的な言い回しになりますが、初めから終わりまでべったりくっついた音楽がうるさい(笑)ですし、画のつくりがあざとすぎます。

公式サイトの Production Notes の「登場人物の感情と一体化する音楽」にあるシュルツ監督のコメント

脚本を書く前から、プレイリストを作ったり、脚本に曲の歌詞を書き込んだりした。というのも、歌詞が物語が進む方向やキャラクターの感情を説明してくれるからね。

が、この映画の音楽を含めた音の処理の仕方の基本になっているようで、おそらくまず基本の物語があり、その主要人物、兄タイラーと妹エミリーの各シーンの心情にあう音楽のプレイリストをつくり、それらとオリジナルスコアの劇伴や効果音を重ねて音楽のシナリオのようなものが作られているのだと思います。

正直、カニエ・ウェストやレディオヘッドは名前を知っている程度、ダイナ・ワシントンやエイミー・ワインハウスははっきり聞かせてくれれば、ああそうかとわかりますが、私の印象では劇伴のほうが優先されておりそれぞれの曲がそれとわかるように有効に使われているようには思えません。まず全編オリジナルスコアの劇伴があり、そこにプレイリストに上がっている曲がつまみ食いのように被せられていたように思います。言うなれば、オリジナルスコアをベースにプレイリストをリミックスした音楽が映画全編に流れているという感じです。

これをどう評価するかでこの映画の評価も変わっているということになります。(私には)それぞれの曲が生きているとは思えませんし、それぞれの曲が効果的に使われているようには感じられないということです。

特に前半のタイラー(ケルヴィン・ハリソン・ジュニア)のパートは音楽が俳優の演技の邪魔をしています。物語的にはタイラーの内省的な部分を見せなければ映画として深まらなくなってしまうところなのに音楽に押されてタイラーが単なる単細胞で短気な人物になってしまっています。

タイラーの人物像は父親に重なっています。父親はマンスプレイニングな人物で家族に自分の価値観を押し付けていることに無自覚です。タイラーはそのことに抵抗感を感じながらも逆らえず、逆にその抑圧感が恋人のアレクシスに対して父親と同じ形で出てしまいます。俳優はそうした葛藤を一生懸命演じているのに音楽がその邪魔をするように暴力性を煽るように働いています。

後半のエミリー(テイラー・ラッセル)のパートは比較的落ち着きがあります。当然といえば当然で、前半のラストはタイラーがアレクシスを殴って死なせてしまい第二級殺人の罪で終身刑の判決をうけ、それをうけて失意のエミリーのパートです。

シュルツ監督はこの構成について同じく Production Notes の「2つのパートで描かれた兄と妹の物語」で

ウォン・カーウァイ監督の『恋する惑星』を観て、2つのパートに分けようと閃いたんだ。前半ではタイラー、後半ではエミリーにフォーカスしてそれぞれのカップルを描き、二人の両親が2つの物語を結びつけている

と語っています。

んー、どうなんでしょう、確かに「恋する惑星」は2つに分かれているようには見えますが、二部構成というわけではなく全編描いていることはひとつですし、この映画のように説明的に物語を語っているわけではありませんので、このコメントを読まなければ「恋する惑星」のことなどまず思い浮かばないと思います。

この映画はキリスト教的価値観にもとづくひとつの物語をふたりの人物に振り分けて描いています。前半のタイラーは「罪」のパートであり、後半のエミリーは「愛」と「赦し」のパートです。

後半のエミリーは兄の「罪」を(気持ちの上で)背負って生きています。エミリーの苦しみが癒やされていくのが後半ですが、そもそもエミリーには「罪」などありません。タイラーを止めなかったという後悔が自分自身を苦しめているだけです。

じゃあ誰が「赦される」べき「罪」を背負っているかと言えば、父親ロナルドであり、エミリーと愛し合うようになるルークの父親です。

本来物語的には「罪」を「赦される」べきはタイラーなんですが、後半はワンカットを除いて登場しない構成ですので、その代理として父親ふたりが登場しているということでしょう。その意味ではこの映画の「罪」を一般化してしまえば、父権主義的で、マンスプレイニングで、暴力的な「男」の「罪」ということになり、その視点で見ていけば、タイラーも、父親ロナルドも、リークの父親もパターン化された「男」として存在しているだけで映画的には深く描かれていません。

特にルークの父親です。取ってつけたようにこの人物を登場させなくてはいけなくなっているのは二部構成にしたことによるマイナス面です。後半においてもタイラーを登場させ、罪の償いや父親の気付きと和解を描けばそんな後付の言い訳ドラマをくっつけなくてもよかったんだろうと思います。

それにアレクシスやその家族のことはほっぽりだして家族の再生もなにもあったもんじゃないというのが、この映画を現実的な視点から見た場合にまず最初に頭に浮かべなくてはいけないことです。

結局、ミュージック・シナリオのごとき全編音楽構成がドラマを単純化させ本来映画が描かなくてはいけないことを覆い隠してしまっているのだと思います。

画のつくり、映像のことで言えば、「様々な手法を駆使した映像表現」で

大切なのはキャラクターの頭の中に入ることだ。物語の冒頭、タイラーはどんな人生でも歩めるように感じている。彼は自由で恋をしていて開放的な気分なんだ。だから画面のアスペクト比は1:85という広さになっている。でも、状況が悪くなるとアスペクト比は狭くなる。人生の浮き沈みを表す、というモチーフを保ちながら、タイラーの心理状態の変化に伴ってカメラワークやアスペクト比は変わっていくんだ 

と語っているのもちょっとばかり首をひねります。

このコメントが成立するのは映像自体が見るものに主体的に感じられることを前提にしています。つまりタイラーに感情移入し同化している状態でなければあり得ない感覚です。

映画を見る者にとってスクリーンが主体的に感じられることなどまずありえません。現実において映画は VR ではありません。

シュルツ監督、1988年生まれですので現在32歳、まったくの想像で言えば、映像自体を実体として感じられる世代が生まれつつあるということなのかもしれません。

もう少し冷めた言い方をすれば、アスペクト比を変えることに新鮮さはありません。それに、このコメントにはありませんが、冒頭のカメラが360度ぐるぐる回るカメラワークにしても取り立ててどうこういう手法ではありませんし、もしそれがタイラーの開放的で自由な気分を表現しようとしてやっていることならば、率直なところ目が回るだけで(笑)、タイラーの心情を表現する的確な手法とは言えません。

やっぱり書き始めますとこうなっちゃいますね(笑)。

批判することは簡単ですが褒めることは難しいということです。どの業界でもそうでしょうが、褒める言葉をもっていないと評論家はできないということでしょう。

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