37 seconds サーティセブンセカンズ

佳山明さんあっての映画だが…。

この映画、ユマを演じている佳山明さんにつきます。

オーディションで選ばれた演技未経験の方とのことです。佳山さんの自然体の心地よさが映画全体を覆っています。まるであて書きしたかのようにしっくり収まっています。

37 seconds サーティセブンセカンズ

37 seconds サーティセブンセカンズ / 監督:HIKARI

監督は HIKARIさん、公式サイトに「本作は2016年、世界のインディーズ作家の登竜門であるサンダンス映画祭とNHKが主宰する脚本ワークショップで日本代表作品に選ばれ」とありましたのでググってみましたら、AFF + Sundance Institute/NHK Award の2016/06/24の記事に「CANTERING」のタイトルで「2016 – 2017サイクルのNHK推薦作品」3作のうちの1作との記載があります。

NHK が脚本を募集(指名?)してそのうち3作を選び、一定期間のワークショップを経た後、サンダンス・インスティテュート/NHK賞に推薦するという流れのようです。受賞しますと、賞金1万ドルと制作へのサポートが受けられるとのことですが、この脚本の記事はありませんので受賞していないのでしょう。2年ほど前に劇場公開されていました平柳敦子監督の「OH LUCY!」が 2016年にこの賞を受賞して制作された映画です。

で、この映画、その後の制作の経緯はわかりませんが、昨年2019年ベルリン映画祭のパノラマ部門で上映され、観客賞と国際アートシネマ連盟(CICAE)賞を受賞しています。

物語の基本は母娘もの、娘への愛情ゆえに過保護になる母親とそれを束縛と感じるようになった娘の物語です。このテーマ自体は珍しいものではありませんが、娘に脳性麻痺による障害があることから、保護と束縛の関係がより強く浮かび上がってくる映画になっています。

まずユマの生活環境が示されます。

母子家庭です。母は人形作家(かな?)として収入があるようですし、ユマ自身も友人の漫画家のゴーストライターをしています。母はユマの行動を逐一把握しようとしますし、何かと手を出そうします。これが現実の母娘の場合であれば、それぞれ個別の問題がありますので傍からどうこう言うのは憚れますが、この映画に限って言えば、母親は娘を自分の保護下に置くことを愛情と思っているようです。あるいは娘の障害を自分の責任と感じているのかもしれません。自分が手をかさなければ娘は生きていけない、娘はひとりでは何もできないと思いこんでいます。映画の中ほど、ふたりの言い合いの場面では実際にそうした台詞があります。

ユマの方はと言えば、そんな母親に窮屈さを感じ始めているようです。母親が手を出す細々としたことには自分でできると抵抗しますし、どこへ行くの?といった質問にもはっきりと答えないようにもなっています。

実際、ひとりで外出することに問題はありませんし、ユマ自身臆したところもありません。ワンシーンだけ母親と言い争いになり、ひとりで風呂に入り出られなくなるシーンがあります。ただ、あれもバリアフリーの風呂であれば実際には問題ないんじゃないかと思います。

という母娘の間に亀裂が入ります。

発端は「性」です。ただし、映画は、ユマ自身の意識として性を正面から描こうとしている訳ではありません。

ユマは漫画家を目指しており、ゴーストライターではなくユマ本人として認められたいと考えています。当然、ユマがゴーストライターをしている漫画家はユマの存在をひた隠そうとしますし、担当の編集者に自分の作品を見せても先生と似ているねと相手にされません。ということからなのか(はっきりしない)、先生とはジャンルの違うエロ漫画を書き出版社に持ち込んだところ、リアリティがないのは経験がないからだと言われ、夜の街に出て女性への性的サービス男子をホテルに呼びます。

という経緯ですので、ユマ本人の性に対する意識というよりも漫画のリアリティのために体験しようとするという描き方です。実際にはユマの意識の中にも何かはあるんでしょうが、映画に、そこまで突っ込んでいこうというところはみられません。

いくらドラマが必要とはいえ、性=風俗というのはどうかと思いますし、薄っぺらく感じます。それに現実問題としても障害者と性という問題が公に語られ始めたのも最近ですし、それでさえ男性の性介助という視点の段階です。もう少し丁寧な扱い方もあったように思います。

障害をもつ男性と渡辺真起子さん演じる女性舞の描き方もなんだか気になりますね。

ただ、この映画、テーマは母娘の関係一点に絞られているようで、障害者が社会へ出ていくことの現実的な難しさはさらりと流されています。

とにかく、ユマが出会う人はみな優しいです。登場人物みな、障害者との間に線を引かないという基本線を守っています。舞や介護士の青年俊哉はもちろんのこと、出版社の編集者や街の客引きのお兄ちゃん、そして街全体の空気としてもユマを優しさで包み込みことに徹しています。 

映画は基本ファンタジーですので、このことをどうこういうことにあまり意味はありませんし、あるいはこの優しさが気になってしまうことの方に問題があるのかもしれないと思ったりもし、難しいところです。

とにかく、映画は、ユマに、母親の庇護を離れて男性との性体験(実現はしない)や飲酒を経験させ一歩踏み出させようとします。

そして、保護と束縛の意識の対立が顕在化します。

朝帰り(だったかな?)のユマ、寝ずの母親、あなたはひとりじゃ何もできない! そんなことはない! の言い争いは最初に書きました風呂の一件となり、そしてユマの家出となります。

で、後半、思わぬ方向へ物語は展開します。

正直、え? そっちへ行くの!? という感じがしますが、ユマの出生の秘密が明らかにされます。

ユマは介護士の青年俊哉と、父親と思しき人物を訪ねます。しかし、すでに父親は亡くなっており、父親の弟からユマには双子の姉がいることを聞かされます。

その姉はタイで教師をしているらしく、驚くまもなく、ふたりはタイへ飛びます。パスポートは?などとツッコミ無用でタイに到着、姉の所在地を探すふたりといった台詞のないトラベルムービーのようなシーンが続きます。

そして姉との対面、あまり詳しく記憶していいませんが、姉はユマのことを知っており、会いたかったことや父親は自分に好きなように生きろと言っていたこと、そして母親に会いたいと伝えてほしい(と言っていたかな?)と言い、最後はふたりで抱擁し合います。

後半の救いは俊哉をやっている大東駿介さんですね。寡黙な青年で、何を考えているかわからない、どっちへ転ぶかわからない表情がとても良かったです。この俊哉をもっと生かせばまた違ったものになっていたように思います。

日本に戻ったユマは、母親と抱き合い、姉が会いたいと言っていたと伝えます。

  

ということで、ユマが得たものも、母親が得たものも、なんだかぼんやりしたまま終わってしまった印象です。

いずれにしても、佳山明さんあっての映画という以外になく、佳山さんがこの映画に出演したことによって佳山さん自身も、また日本の映画にも何か変化が訪れればと思います。