家族を想うとき

労働者よ、もっと怒れ!とケン・ローチ監督は言っている

ケン・ローチ監督はもともと策を弄するような映画は撮らない直球勝負の監督ですが、前作の「わたしは、ダニエル・ブレイク」からさらにその傾向が強まり、この映画では行くところまで行っている感じがします。

言い方を変えますと、ケン・ローチ監督、前作にも増して心の底から怒っています。

家族を想うとき

家族を想うとき / 監督:ケン・ローチ

前作では個人の尊厳を踏みにじる社会構造にその怒りが向いていましたが、この映画ではかなり具体的な労働環境にその矛先が向いています。

上の画像の父親リッキー(クリス・ヒッチェン)がフランチャイズシステムの宅配ドライバーを始めるところから始まります。

これ、いわゆる起業といったことではなく、かなり追い詰められての選択です。映画ではあまり詳しく語られていませんでしたが、2008年の経済危機(リーマン・ショック)で職を失い、住宅ローンが支払えなくなり家を手放し、そのローン返済を抱えたまま今は借家住まいという状態です。その後の仕事もままならないようです。

妻のアニー(デビー・ハニーウッド)は介護士として働いていますが、施設勤務ではなくすべてホームヘルパーのようで、派遣元が組むスケジュールに追われる毎日です。報酬は時間制ではなくノルマ(訪問件数)制で移動の交通費も自分持ちです。

ですので訪問先でトラブルがあればどんどん労働時間が長くなり、子どもたちが帰ってくる時間に家に戻れなく、移動中に電話をしたり、明日は早く戻るからねと言いながらも次の日も夜遅くなってしまうという繰り返しです。

この二人の俳優さん、どんな経歴なんだろうと見てみましたら、ほとんど無名の俳優さんでオーディションで選ばれたようです。どちらもいいキャスティングです。

で、物語ですが、とにかくいいことは何も起きません。

フランチャイズの個人事業主というのは建前で、完全に本部の配送センターに管理されています。行動はスキャナーという端末にすべて記録されます。

おそらく日本の宅配業者も同じようなシステムを使っていると思いますが、映画では配達時間が1時間区切りらしく、時間に追われるという言葉では生易しく感じられるほど時間に追いまくられています。先輩からペットボトルを渡され、怪訝な顔をしていましたら、尿瓶だと言われていました。実際に映画のラストでその場面があります。

さらに映画では、労働時間は14時間とかいっていましたし、休む場合は自分で交代要員を探せだの、トラブルがあれば罰金だの、とにかくまともな労働環境ではありません。

現在日本で問題になっている某コンビニのフランチャイズも似たような状態ということなんでしょう。

で、そうした管理体制の現場の管理者がすごいんです。血も涙もない鬼上司(上司じゃないか)マロニーです。その抑圧感がすごいです。暴力的でもありませんが、そういう契約だからと容赦ありません。法律的にはどうかはわかりませんが、パワーハラスメントでしょう。もっとひどいか…。

演じているロス・ブリュースターさん、公式サイトには現役の警官とあり、なるほど、だからか…(ペコリ) え? イギリスじゃ、俳優と兼業できるんでしょうか? 

とにかくひどい労働環境です。

そもそも仕事を始めるには車が必要になります。配送会社からのリースもありますが、当然(であってはいけないけれど)割高ですので、リッキーはローンを組んで購入することにします。頭金にする現金もありませんので、アニーが仕事に使っている車を売ることにします。

一日に何か所も訪問するアニーにとっては車は必要不可欠です。しかし、アニーはリッキーの説得に応じます。アニーの移動はバスになり、さらに帰宅時間が遅くなります。

もうスタートからして負のスパイラルを予感させ、胸が痛くなってきます。

そういう映画ですので覚悟して見るしかありません。

駐車違反の取締警官や宅配先の住人の横柄な態度が描かれます。日々接するヤマトさんや佐川さん、最近はゆうパックさんもちょこちょこありますが、そうした人たちのことが浮かんできます。ありがとうのひとことを忘れないようにします。

息子のセブの素行がおかしくなってきます。

このセブを演じているリス・ストーンくんの声、むちゃくちゃ渋いです。バスですね。

素行がおかしいというのは正しくなく、友人たちとグループでグラフィティを描いているということです。そのためのスプレーペイントを買うために両親が買ってくれた高価なジャケット(ゴアテックス)を売ってしまったり、夜に家を抜け出したりしています。

現実的には子供の問題の原因がすべて家庭にあるわけではありませんが、10年来のゆとりのないぎすぎすした家庭環境が影響して徐々に進行していたものが、父親の仕事の変化から表面化してきたと言えます。

ある日、セブが学校で喧嘩をし相手に怪我をさせたと連絡が入ります。しかし、リッキーは仕事で学校へ行けません。アニーはなんとか都合をつけて行ったようですが、校長はなぜ父親が来ないのかと、結局セブは一週間の停学になってしまいます。

夜、リッキーはセブに感情的に当たり、さらにアニーにまでなぜ校長に対してなぜ主張しないのだと当たります。父親が来ないからだと言い返され言葉もありません。

やむを得ないこととはいえ、父親であるがゆえのよくないところが出ます。

家族が危機的状況になってもリッキーは仕事を休めません。マロニーに休暇を願い出ても自分で変わりを探せとにべもありません。本来、自由であるべき労働(幻想です)が絶対的なものとして人に覆いかぶさってきます。

さらに状況は悪くなります。セブが万引きをしたと警察から連絡が入ります。スプレーペイントを盗んだようです。リッキーは仕事を抜けることを願い出ますが認められることはありません。ペナルティの罰金です。

夜、とうとうリッキーはセブに手をあげてしまいます。セブは出ていってしまいます。

そして、夜中、何者かが(セブですが)壁に掛けられた家族写真にスプレーでバツ印をつけていきます。と同時にリッキーの車の鍵がなくなります。

リッキーはセブが持っていったと考えていますが、実は娘のライザが隠したのです。

本当に身につまされますが、ライザは父親が仕事に行かなければ家族が仲良く暮らせると考えたというのです。

このあたりになりますと、もうやめてよと言いたくなるくらいですが、最後、映画はさらにこの家族を追い詰めます。

リッキーが配達中、トイレに行く時間もなくやむなく例のペットボトルに小便をしている時に暴漢に襲われ、荷物を取られ、端末は壊され、大怪我を負います。

病院からマロニーに電話で事情を話しても容赦ありません。ペナルティの罰金の上に、端末の弁償代まで請求されます。

アニーが思わずリッキーの電話を奪い取り、マロニー相手にまくし立てます。自分を失い、汚い言葉でマロニーを罵るアニー。しかし、電話を切った瞬間、アニーは自らの行為への悔恨、自責、慚愧、どんな言葉でも言い表せられないいたたまれない気持ちに泣き崩れます。

翌日の早朝、傷も癒えぬまま、リッキーが出ていこうとします。アニーも、戻ってきているセブも、ライザも必死で止めようとしますが、リッキーは何を見ているのか、家族の静止を振り切り、どこへか乱暴に車を走らせて映画は終わります。

リッキーはどこへ向かったのでしょう? 仕事なんでしょうか? 

出口のない未来へでしょう。

と、映画は第三者的に描いているわけではありません。ケン・ローチ監督は怒っていますし、かなり上品ではありますが、もっと怒れということだと思います。 

シナリオはポール・ラバーティさん、ケン・ローチ監督とは1996年の「カルラの歌」以降、すべての脚本を書いており、信頼以上のものがあるのでしょう。こうした内容の映画ですと脚本にも監督の名前がクレジットされる場合が多いと思いますがどの映画も単名でちょっと不思議です。

ケン・ローチ監督、83歳、もうコンペティションに出品するような映画は撮らないと語っているそうです。誰か跡を継がなければ…。

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