そんなには褒めないよ。映画評

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「真実 La vérité」(ネタバレ)カトリーヌ・ドヌーブとジュリエット・ビノシュであればこその映画

是枝裕和監督のパルムドール受賞後第一作です。

引用の画像を見てのとおり、俳優はカトリーヌ・ドヌーブ、ジュリエット・ビノシュ、イーサン・ホークという国際的スター、そして、IMDbを見た限りおもだったスタッフに日本人は入っていないようです。

もともと是枝監督は台詞を大切にする監督だと思いますが、さらにこの作品では劇中に映画の撮影シーンがあるという二重構造になっており、その二層の台詞が互いに関連しているという難しい内容であり、何をおいても俳優の理解度が最重要という映画です。

是枝監督自身がフランス語はまったく理解できないと言っていますし、英語での深いコミュニケーションが取れるようにもみえません。それでよくここまで仕上げたものだと、まずは賞賛の言葉をおくりたいと思います。

 

真実

真実 / 監督:是枝裕和

 

ただ、当たり前ですが、そうした点からの評価がなされるのは日本だけですので、映画としての評価はさほど高いものにはならないでしょう。

 

まず、映画の軸が最後まではっきりしません。

 

国民的大女優ファビエンヌ(カトリーヌ・ドヌーブ)が自伝本を出し、その出版を祝うためにアメリカから娘のリュミール(ジュリエット・ビノシュ)と夫ハンク(イーサン・ホーク)がやってきます。

公式サイトや宣伝コピーによれば、「この自伝に綴られた<嘘>と、綴られなかった<真実>が、次第に母と娘の間に隠された愛憎うず巻く心の影」を顕にしてくることが映画の軸のように思われます。

しかし、この自伝本が出てくるのは映画が始まってしばらくだけで、その後は忘れ去られてしまっています。自伝本の存在がみえてきません。こうした映画の場合、概略だけにしても実際に自伝本は書かれるものだと思いますが、それがあるようにはみえません。

 

自伝本に変わって中盤から前面に出てくるのが劇中劇であるファビエンヌが出演するSF映画です。この映画の内容はちょっと変わったもので、母娘がいて、母は不治の病のために地球を離れてどこかの星へ行くことでしか生き延びられなく、そこでは年をとることがなく、何年かに一度地球へ帰ってくる母は、年々年老いていく娘よりも若いという設定の映画です。

ファビエンヌがその娘役を相応の年齢で演じます。

そして、相手役の母親を演じるマノンという俳優が、若き頃ファビエンヌが親しくしていた、そしてライバルでもあった、今は亡きサラの再来と呼ばれている若手俳優なのです。

リュミールはそのサラを「サラおばさん」と呼び、母であるファビエンヌよりも強い思い入れを持っているようです。

 

自伝本との関連で言えば、それを読んだリュミールがサラおばさんのことが何も書かれていないと迫るシーンもあります。しかし、映画的には、そのサラに関する「嘘」と「真実」が映画を引っ張っていく要素になることはありません。

そもそもサラの実像がみえてきません。サラは事故(かどうかもはっきりしない)で亡くなっているのですが、それがいつのことなのか、何年前のことなのか、リュミールがそのソファに座っていた姿を思い出すとか、母であるファビエンヌよりも慕っていたことは語られてもいっこうにその姿が現れてきません。どんな人物だったのか見えてきません。

 

というなんともはっきりしない展開がかなり後半まで続きます。

それで映画になるかということですが、この映画が示しているのは、基本、映画は監督(に象徴される制作側)のものであっても、俳優の存在感なくして映画は成立しないという、まあ当たり前と言えば当たり前の事実です。

 

ドヌーブさんとビノシュさんの存在感があってこその映画ということです。

 

ビノシュさんはかなりこの映画のテーマ的なものにアプローチしようとしているようにみえます。映画自体がそれに頼っているところも多いと思います。

一方のドヌーブさんは違ったところからこの映画にアプローチしています。それはまさしくファビエンヌそのもので、その俳優がいるだけで映画が成立するという、そのこと自体を知っている俳優の佇まいであり振る舞いです。

 

劇中映画のラストシーン、それまで台詞を覚えていかなかったり、相手役のマノンに嫌みのようなことを言ったりしていたファビエンヌでしたが、見事に母娘の別れを感動的に演じ切るのです。

そして、それを契機にリュミールの母に対するわだかまりも消える(ように見える)のです。

 

まあそれほど単純に描かれているわけではなく、後にファビエンヌにふっとラストシーンをもう一度取り直したいと言わせたり、長年の秘書であるリュックが辞めたいと言ったことについてリュミールにその気はなかったでしょうと言わせたりと、何が嘘か本当かわからないようなエピソードがかなり盛り込まれてはいます。

 

ファビエンヌは、悪く言えば人のことなど何も考えていない、よく言えばおおらかな人物です。俳優である以上、全てが演じることのためにあり、娘を持つことも、娘を愛することも、辛く当たることも、サラの良いところを盗み、サラに勝とうとするそうしたことが生きることそのものということです。ファビエンヌにとっては「真実」も「嘘」もありません。

  

結局、この映画が語ろうとしていることは、「真実」というものが「嘘」といったものと対立する概念ではなく、そもそも「真実」というもの自体が存在しないという、つまり、記憶はつくられるもので信用できないですし、人の行為にはそれを誰が書くにせよ何らかの台本があるものであるという、そこまでは言い切っていないにしても、この価値観は是枝監督の他の作品にもみられるものです。「万引き家族」にも若干そうした傾向は見られますが、「三度目の殺人」がそのものズバリの直球です。

 

是枝作品の中で、この価値観をテーマにした映画はあまり出来が良いようには思えません。そもそもそれ自体が観念的である上に、もうすでに「真実」などどこにもないことに驚くような人はいません。人間関係も社会もその上に成り立っていることはもう誰にだってわかっていることです。

 

現実の中にある「嘘」を暴き「真実」を見つけようとすることは映画になると思いますが、そもそも「嘘」である映画の中で、ただ観念的に嘘だの真実だと語ったとしてもどこか膜のはったような映画にしかならないということです。

 

この映画のもととなっているのが、むかし書き始めて完成しなかった女優をめぐる舞台劇だという記事を読んだ記憶があります。完成しなかったのであれば、やはり何か問題があるということです。この映画のシナリオは、かなり無理をして完成させたもののように感じます。

 

ところで字幕なんですが、丸ゴシックであの狭い文字間でいいんでしょうか? 数えていませんが文字数も怪しいもので、とにかく読みにくかったです。

 

海街diary

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