そんなには褒めないよ。映画評

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「さよなら、退屈なレオニー」(ネタバレ)実はレオは”さよなら”しておらず、退屈と失望の真っ只中

「グザヴィエ・ドランにつづく新鋭×東京ジェムストーン賞受賞の未来を担う女優」の宣伝コピーにつられたとしても、裏切られることも後悔することもありません。

新鋭とはセバスチャン・ピロット監督、未来を担う女優とはカレル・トレンブレイさんです。

 

さよなら、退屈なレオニー

さよなら、退屈なレオニー / 監督:セバスチャン・ピロット

 

ただ、新鋭といってもピロット監督の年齢は1973年生まれですから46歳くらいです。トレンブレイさんは1996年生まれの23歳、映画では17歳のレオニー(以下、レオ)を演じています。

 

カナダ、ケベック州ですのでフランス語の映画です。そこからもグザヴィエ・ドランの名前が使われているということでしょう。

 

この映画のなにがいいかって、物語に頼らずに人物、特にレオの細かい表情をじっくりと捉えようとしているところです。物語というのは所詮作りごとですが、それを演じる俳優は生身であるがゆえに、時に、仮想である演じる役と実在である俳優が融合してその俳優でなければ出てこないリアリティが生まれてくることがあります。

 

そういう映画ですので、この映画の良さは見ないとわからないということです。

 

で、何を書こうかと、公式サイトの監督インタビューを読んでみましたらびっくりです、監督自身がすべて喋っています(笑)。ちょっと雄弁すぎるんじゃないのと思うくらいです。このインタビューを読めばこの映画はよくわかります。 

 

いくつか注目すべきポイントがあります。

まず、冒頭、レオ17歳が物憂げに街をさまよう(ちょっとオーバー表現)シーンに流れる音楽にはかなり違和感を感じます。これから17歳の少女の青春ものが始まるのだろうと思っていますと、そこに流れていくるのは壮大な歴史ロマンや悲劇的恋愛映画を思わせる、かなりクラシカルな印象の管弦楽曲(風?)の曲です。Youtubeで聴くことができます。

 


Le thème de Léo / Ouverture

 

このテーマ曲、どのシーンかははっきり記憶できていませんが、他のシーンでも1、2度使われています。この音楽について、ピロット監督は、「トゥーマッチで、存在感が強すぎるくらいの、映画のトーンとは少しずれたようなものをイメージして」いた、「とんでもない注文でしたから。彼(作曲家フィリップ・ブロー)の音楽はこの映画の中で大きな愛の要素をもたらしています」とそれが監督の要求であり、結果に満足しているようなニュアンスで語っています。

 

おそらくこれは、この映画が単に17歳の少女のある時期特有の憂鬱のみを描こうとしているわけではないことの表現かと思われます。もちろん、監督の趣味や価値観として、こういう音楽が好みなんでしょう。私も好きですし、こうしたミスマッチなことをギリギリなところでやるセンスも好きですので、おのずと映画の評価もあがります(笑)。

 

で、この青春特有の憂鬱だけではないということは、ちらちらと語られる父親をめぐる社会環境にも現れています。

レオは間もなく高校を卒業します。しかし、その後どうするかも決めておらず、また決めなくてはいけないそのことにも(静かに)イラついています。そのイラつきには家庭環境も影響しています。 レオは母親の保護下で暮らしています。母親は離婚し、現在はラジオDJの男と同居しています。

実の父親は、おそらくその地域の基幹産業であった何か(鉄鋼とか、造船とか?)の企業の労働運動のリーダーであったことから、これも想像ですが、リストラ、あるいは閉鎖に対する闘争に失敗し、その責任をとるかたちで北方へ左遷されているようです。そして、時々(年に一度とか?)休暇として(1,2週間?)戻ってきます。

 

この実父の過去はレオがスティーヴ(レオが気持ちを寄せるギター講師)や友人(だったか?)に話すことでしか語られません。事実がどうであるかということではなく、レオにはそのように社会が映っているということです。この点について監督は、インタビュアーの「レオニーとスティーヴのストーリーがこの映画の中心だとしても、社会政治的な背景が重要な要素になっています。この映画の二つの側面、個人の親密さと社会性について話してください」の鋭い質問に対して、「レオニーは2つの正反対の父親像の間に位置しています。彼女の個人的な状況は社会政治的な状況にも見えるでしょう」と答えています。

 

実父は社会からはじき出されているが信頼できる人物、しかし「不在」(監督の言葉から)です。日常的にレオの眼の前にいる義父は社会的地位やその発言に影響力もある人物です。レオは義父を嫌い、軽蔑しています。当然、実父を捨て義父を選んだ母も同じです。

冒頭、街をさまようレオがその後向かった先は、母と義父(とよくわからない人たち)がレオの誕生日会を開いてくれるレストランです。そのシーンで示されるのは、母や義父に象徴される押し付けがましい社会へのレオの拒否感です。これ、冒頭のテーマ曲の直後のシーンです。

 

実父は、レオにとって不在であるがゆえに希望です。しかし、後半、その希望もものの見事に粉砕されます。レオは、義父から、実父が母親に暴力を振るっていたこと、そしてそれが離婚、北方行きの理由だと告げます。レオが実父に尋ねますと、一度だけ殴った、我慢できなかったと告白します。

この時のレオの絶望感は察するに余りあります。正確な台詞ではありませんが、レオは言い訳気味に語る実父に、「そうやって愛情があったからだというのね」とつぶやきます。

 

レオとスティーヴの関係について、ピロット監督は「レオニーは、二人の父親の間に3人目の父親的な存在、「代用(の父)」というべき存在をスティーヴに見出します」と語りつつ、インタビュアーが二人の恋愛関係について尋ねたのに対して、また面白いことを言っています。「レオニーとスティーヴが予想に反して結ばれるところを見てみたい、という欲望を観客に呼び起こしたいと思っていました」

 

「予想に反して」という意味合いがつかみきれませんが、この映画のつくりなら、多くの人がレオとスティーヴは結ばれるだろうと予想し、それを期待するだろうが、そうはしなかったということかと思います。

レオが野球場の夜間管理人のアルバイトを得て、その野球場で、スティーヴにひとりライブをやらせたシーンの後、二人が顔を見合わせ、今にもスティーヴがキスしそうなカット、レオはスティーヴの眼を見ながらかすかに首を横に振ります。

また、後半、ギターのレッスン中、気分がもやもやしていたのでしょう、レオが出かけようと言い、二人でライブハウスに行きます。その後、ビリヤードやジュークボックスのあるバー(ダイブバー?) に行き、レオが客の男とビリヤードで勝負している時、それを結構やるじゃないか(うまいということ)と見ていたスティーヴは、その場を離れ、バイクシミュレーションのバイクにまたがってゲームを始めます。するとそこにレオがやってきて、バイクの後ろにまたがり、やがてもたれかかり、体に腕をまわします。

あらら…と思いますが、翌朝、レオはスティーヴの家のベッドで眠り、スティーヴはソファで眠っています。

 

二人が結ばれるだろうと思わせつつ、そうはさせないということです。

 

このスティーヴですが、母親と同居し、地下(そんなに暗いイメージではない)で暮らしています。ギターの個人レッスンが収入源ですが、さほどあるあけでもなく、どちらかといいますと社会からドロップアウトした人物です。年齢は親子にも見えると言われていますので40歳くらいの設定でしょうか。

ギターの腕は一流ですが、たとえばレオがバンドをやっていたの?と尋ねても何も答えません。おそらく社会性を拒否した寡欲な人物がイメージされているのではないかと思います。レオはひと目見て惹かれるわけですから、ある瞬間、そこに自分の居場所をみたということだと思います。

 

しかし、ある時、レオは自らスティーヴを拒否します。映画的には特別何かが起きたわけではないのですが、実父の実像を知り、その悶々とした感情を義父の高級車をバットで叩き壊すことで晴らし、そしてスティーヴにも、なぜレッスンに来ないと問われたことに対して、あんたの女じゃない!と八つ当たりして関係を絶ちます。

 

自ら退路を断ったということでしょう。でも、どこにも未来への道筋はみえません。

 

スティーヴの母親が亡くなります。生前、ギターのレッスンに通うレオとトランプゲームで遊んだり、レオがスティーヴに捨て台詞を言って去る時に悲しそうにレオを見つめるシーンがあります。

 

メールで知らせを受けたレオは葬儀に向かいます。スティーヴとレオのふたりきりです。スティーヴが言います。父親の時はここが人でいっぱいだった、母が仕切っていたからねと、やや自虐的な台詞をはきます。

寂しさを感じさせるシーンというわけではありません。監督が「コメディドラマのトーンを持って」いると語っていることのひとつなんでしょう、この場に、知人なのか、他人なのかはわかりませんが、ひとりの老女を登場させ、棺桶に横たわる母親に対面させ、それを見たレオとスティーヴが眼を見合わせてクスリとするカットを入れています。

 

コメディーで思い出しました。レオとスティーヴが夜遊びに出かけた日、レオは野球場の管理人のアルバイトをすっぽかしたらしく、レオが球場の照明をつけなかったために、いつもの野球チームが暗闇でキャッチボールするシーンをいれていました。笑えるわけではありませんが、映画をゆったりした印象に引っ張るとともに、深読みすれば、社会はレオが思う以上に許容度は高いよと言っているようでもあります。

 

ラストです。後日、最初にスティーヴと出会ったダイナーにレオがいます。いつものようにスティーヴがやってきます。出会った時と同じように、レオが星座は何?と尋ね、スティーヴは当ててみろと言い、レオはかに座(だったかな?)と当てます。出会った時は、嘘か本当かわからないのですが、最後の最後まで当たらなかった星座です。 

 

そして、レオは、なんと言っていたか記憶していませんが、ちょっと出てくるといった程度の意味で店の外に出ていきます。そして、何をするともなく歩いていたと思いましたら、たまたま来たバスに駆け寄って飛び乗るのです。

 

実は、このシーン、ファーストシーンでの繰り返しになっています。テーマ曲をバックに街をさまようシーンがあり、誕生日会のレストランに向かい、大人たちに静かなる抵抗を示した後、トイレへ行くと言ってその場を抜け出たレオはたまたま来たバスに飛び乗ります。そして、この映画は始まります。

 

再びバスに飛び乗ったレオ、映画の最初に乗ったバスはこの街を出ることはなかったのですが、映画のラストに乗ったこのバスは、いったいどこへ向かうのでしょう? 

 

ところで、原題の「La disparition des lucioles」は「蛍はいなくなった」という意味とのことで、ラジオDJである義父が番組の中で蛍がいなくなったことについて言及しており、その関連から、ラストシーンは2,3匹の蛍が光を放つカットで終えています。いなくなった蛍が再び戻ってきたということかと思いますが、これはちょっと考え過ぎ、やり過ぎでよくわかりません。

 

ということで、雄弁すぎる監督で、喋り過ぎ! とは思いますが、こんなことも語っています。

これは青春映画ではありません。 これは私にははっきりとしています。曖昧さ、青春映画の見かけを利用したことは事実です。カミング・オブ・エイジ的な側面も見えるでしょうが、この面からのみこの映画を見るのは間違いだと思います。例えば、今の若者の自然体のポートレイト、今の若者の心理を撮りたかったわけじゃありません。もっと普遍的なものを撮りたかったのです。私の他作品と同様に、私が狙ったのは、このストーリーを通して、今日のケベックのポートレイトを撮ること。時代のポートレートです。遠回しにはしました。アイデア、直感、ある映像が頭に浮かび、次にそれを語るためにストーリーを構築します。これが私のやり方なのです。

 

まあ映画ですから見る側がどう取ろうがいいわけですが、日本では、ピロット監督の意志に反して「青春映画の傑作」「ひと夏の泡沫青春ダイアリー」で売られることになってしまいました。

 

マイ・マザー(字幕版)

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