ポルトガル、夏の終わり

ロメールっぽさを使ったアイラ・サックス監督の世界かも

映画のつくりがロメールっぽいなあと思いながら見ていましたので、帰り道、さっそく映画のタイトルとロメールでググりましたらやっぱりかなりヒットします。それにアイラ・サックス監督本人が「ロメールを研究した」と語ったかのような記述もあります。

ポルトガル 夏の終り

ポルトガル、夏の終わり / 監督:アイラ・サックス

インタビューがないかと調べましたら昨年2019年のカンヌ映画祭コンペティションで上映された際のインタビューがありました。

Cannes: With Frankie, Ira Sachs Invites Audiences To Find The Extraordinary In The Ordinary – MovieMaker Magazine

確かに脚本のマウリシオ・ザカリーアスと一緒にロメールの映画を何本か(a few)見たとあります。それにこのインタビューにはインタビュアーがあれこれ他の監督名を上げることもあり何人かの名前が登場します。

アッバス・キアロスタミ、小津安二郎、ミケランジェロ・アントニオーニ、ロバート・アルトマン、これらの監督についてはインタビュアーが話を振ってのことですが、そうではなく監督自らが参考にしたとあげている映画があります。

サタジット・レイ監督の「Kangchenjunga」です。タイトルのカンチェンジュンガとはヒマラヤの標高では第3位の山のことです。


Kanchenjunga 1962 Bangla Art Film Full Movie By Satyajit Ray

これですね。休暇中の家族のある一日の朝から夕方までを描いている映画らしく、そこから single day, single location という構想を得ていると話しています。娘の結婚がテーマらしく、いい相手か悪い相手か(本人と家族の思いが違うという意味かな?)どちらと結婚するかということのようです。

ざっと見たところでは、確かに山道での会話シーンなどインスピレーションを得ている感じはします。

それにしてもアイラ・サックス監督、可愛そうですね、あの映画を思わせる、これに影響されているのではないかなど、あれこれ他の映画を出されて比べられてもどうよと思います。

インタビュアーの Amir Ganjavie さんは多分イランの方ですね。ラストシーン、皆が山を登っていくシーンでキアロスタミを思い浮かべたと言っていますが、さすがにそれはちょっと無理があるのではないかと思います。

ただ、ロメール監督についてはかなり意識されていると思います。そもそもリゾート地を背景にしていることもそうですし、自然光の中の人物の撮り方や過度な切り返しのないカメラワークなどは一見してああローメルだあとなります。

ただ(が続きましたが)、物語と言いますか描かれているものは随分違います。この映画で描かれるのはフランキー(イザベル・ユペール)を頂点とするヒエラルキー型の集団です。現在の家族であり、元家族であり、親しい友人との一日です。

フランキーはがんの再発により自らの死期を自覚しています。公式サイトによれば、実のところ映画からそれを読み取るのはかなり無理があるようには思いますがとにかく、フランキーは自らの「亡きあとも愛する者たちが問題なく暮らしていけるよう、すべての段取りを整えようと」夫ジミー、実の息子ポール、義理の娘シルヴィアとその夫イアンと娘マヤ、元夫ミシェル、そして現在最も気を許せる友人アイリーンをポルトガルの世界遺産シントラに呼び寄せます。

息子ポールが、15歳の時に母親フランキーの再婚相手ジミーの娘シルヴィアとここでセックスしたと語っていましたのでいっとき暮らしていたことがある場所ということでしょう。

確かに映画の見た目のスタイルはロメール監督を彷彿とさせるところがありますが、そこで進行することはまるで違う世界、かなり濃密な人間関係です。

夫ジミーはお菓子(かな?)を買おうと寄った店の店員に目が腫れていると言われていましたが、あれはフランキーを失うことの恐れから昨夜涙に暮れたということでしょう。

息子ポールはどこか親離れができていない雰囲気です。何をしているのかよくわかりませんでしたがニューヨークへ移ろうとしています。

フランキーはポールの結婚相手に友人アイリーンを考えているようで、それもあってこの場に呼んだということでしょう。ただ、フランキーがそのことを積極的に進めようとしているようには描かれていません。

ポール自身は母親の意志を感じるがゆえに、またそれだからこそ、それもいいか、いやいやだの間で揺れ動いているように描かれています。上に書いた自身15歳の時の話をした相手はアイリーンです。

ポールはその過去を話した後、アイリーンにそんな人間とつきあえるか(結婚できるか?)みたいな問いを投げかけており、それに対しアイリーンは、あなたでなければ(だったと思う)と返していました。

このシーンこそがこの映画の肝ではないかと思います。

アイラ・サックス監督の映画は初めてでどういう映画を撮っている監督かまったく知りませんが、私は、このシーンこそがサックス監督の持ち味の出ているシーンではないかと感じています。

つまり、サックス監督がイザベル・ユペールさんからオファーされたということが事実であれば、さてどんな映画にしようかと考えた時、そうだ、フランス映画界好みの映画をつくってやろうと考えたのではないかというのが私の見立てです。

濃密な人間関係の物語なのにその濃密さを描かないように心がけながらも、このポールとアイリーンのシーンだけはふたりの感情が画にほとばしっています。

濃密な関係という点ではシルヴィア夫婦の離婚話もそうではありますが、夫婦の気持ちのすれ違いの現れは描いていてもほとんど感情がほとばしるような熱いシーンはありません。

また、アイリーンが、連れてやってきた恋人ゲイリーからプロポーズされる一連の流れにしても濃密さはまったくなくあっさりごめんなさいで終わっています。

元夫ミシェルがフランキーと別れた後自分がゲイであると気づいたということやジミーに対して「フランキーの後は(別れた後は)人生が変わる」と意味深に語ることなどはさほど大した意味はなく、フランキーの人物像を持ち上げるための仕掛け程度だと思います。

ということで、この映画、確かにとらえどころのない映画に見えはしますが、あえて穿った見方をすれば、アメリカ人であるアイラ・サックス監督がフランス映画界に対して、あなたたちはこういう映画が好きでしょと、ある種挑戦的意味を込めて投げかけた映画ではないかと思います。

ラストシーン、フランキーが皆に夕刻山頂(かな?)に集まるようにと告げた理由は単に美しい夕日を見ようということだったんだと思います。

その意味では死期を覚悟したフランキーの心情が見事に現れたシーンだと思います。あえて夕日を撮らず、さほど長い時間夕日を見ることもなく皆がフランキーに従うように山道を下りてくるところは、何とも言えず先頭を走る(ことになってしまった)人間の切なさが感じられます。

ところで、イザベル・ユペールさんのインタビューに「今後、一緒に仕事をしてみたい監督は?」と尋ねられ、

日本の濱口竜介監督ね。彼の『寝ても覚めても』(10)を観て、これまでの日本映画、もっと言えばフランス映画も含めて、過去のどんな作品とも違う、独特のムードを作り出す監督だと感じたの。濱口監督の特集上映がパリで開催され、彼も来場すると聞いていたのだけど、残念ながら私は行くことができなかった。お会いしたかったんだけど、今度日本へ行くので……。

と答えています。

おー「寝ても覚めても」 見たんだぁ、さらに「過去のどんな作品とも違う、独特のムードを作り出す監督」と感じたんだぁ、と感動しました(笑)。

寝ても覚めても

寝ても覚めても

  • 発売日: 2019/03/06
  • メディア: Prime Video