ペトルーニャに祝福を

神は存在する 彼女の名はペトルーニャ、というマケドニア映画

邦題は「ペトルーニャに祝福を」という優しいタイトルになっていますが、英題は「GOD EXISTS, HER NAME IS PETRUNYA」です。マケドニア語の原題も同じ意味らしく、そのまま日本語にすれば「神は存在する 彼女の名はペトルーニャ」です。

ギリシャ正教とか東方教会と呼ばれるキリスト教の世界の話ですから、日本語で受け取る印象以上に皮肉っぽいタイトルなんだと思います。

映画自体も風刺や皮肉が効いたとても面白い映画でした。

ペトルーニャに祝福を

ペトルーニャに祝福を / 監督:テオナ・ストゥルガル・ミテフスカ

ペトルーニャは十字架を捨てて神になる 

最後のオチが無茶苦茶うまいです。皮肉の効いた素晴らしいエンディングです。それまでペトルーニャに対して抑圧的に振る舞っていた周りのすべての権力的なものが置いてけぼりにされ、まさしくペトルーニャが神になる瞬間でしょう。ただし、ペトルーニャが行く先はまだまだ険しそうです。ただひとり寒々とした雪野原を歩いていきます。

正教会には「神現祭」というお祭りがあるらしく、司祭が橋の上から投げる十字架を裸の男たちが川に飛び込み我先にと取り合います。参加していいのは男に限られているのですが、それをペトルーニャが取ってしまいます。

日本の神事も多くが女人禁制といっていますので権力的な宗教というのはどこも同じのようです。男たちが裸で取り合うなんてのもきっと日本にも同じようなものがあるのでしょう。

十字架を持ち帰ったペトルーニャは母親には責められ、警察に拘束され、教会からは十字架を返せと言われ、怒り狂った裸の暴徒たちには取り囲まれて水をかけられ、検事に尋問されます。最初は、十字架は自分のものだと主張しながらも不安のペトルーニャでしたが、次第に自分の置かれている立場を自覚し始め、もう帰っていいと開放されたその時、おもむろに十字架を取り出し傍らの司祭に差し出すのです。

「これはあなたたちにこそ必要なもの、私には必要ない」(ちょっと誇張した)と、なんの迷いのない清々しい顔で言うのです。

ネタバレあらすじとちょいツッコミ

冒頭は、ブルーの地面に何本かのラインが引かれた場所にペトルーニャがひとり立っており、激しいロックが流れます。

ブルー一色というわけではなくムラムラになっていたり、木々が写っていましたので何だろうと思いましたら、もう使われていないプールですね。面接に行く途中、そのプールを横切っていました。映画は1月のいち日の話ですので夏には水が入るのかも知れません。

ペトルーニャ、面接に行く

そのシーンから突然変わり、ペトルーニャが寝ているかなりアップの画です。不思議なカットでペトルーニャが横になった上半身くらいがシーツの間から見えるか見ないかくらいに捉えられており、そこに母親が皿にのせた何か(パンかな?)を持ってきますので、ペトルーニャはそのまま手を伸ばして取りむしゃむしゃと食べ始めるのです。

全体にアップの画が多いことも特徴的ですし、カメラワークや編集が普段見慣れているものとはちょっと異質な感じがして映画のつくりもとても面白いです。

ペトルーニャは32歳、母親が面接に行けと急き立てています。ペトルーニャは乗り気ではありません。適当にあるものを羽織って出たペトルーニャを母親が追っかけてきて、きれいなものを着て行け、年は24歳、25歳と言えと言っています。

ペトルーニャと母親の関係は、娘の将来を心配して必要以上に構い、それを鬱陶しく感じる娘ということのようで、ただ、後にペトルーニャが熱く母親を抱擁するシーンがあります。あまり目立ちませんが父親もいます。年金生活(あるとすれば)という感じです。

友人が働いているブティックに寄りワンピースを借ります。友人は恋人と旅行へ行くとか言っていたと思います。ただ恋人は妻子持ちのようです。こういう設定にもどこか鬱屈した雰囲気が漂っています。北マケドニアの田舎の町の話で、全体として寂れた感じが出ています。

面接は縫製工場です。かなり広い工場で女性たちが同じ方向を向いてミシンを掛けています。その中央にガラス張りの部屋があり、責任者の男がスマートフォンを弄っています。ペトルーニャが紹介されてきたと言いますと男は上目遣いに「知らない」とからかい、その後もパワハラ、セクハラし放題です。ペトルーニャが25歳と言いますと「42に見える」とか、大学で歴史を学んだと言えば「歴史など役に立たない」と言い、ペトルーニャの太ももに手を置きスカートをあげようとします。そしてペトルーニャがそれに応えようとしますと、突然「からかっただけだ。就労経験なし、事務処理もできず、見た目もそそらない」と侮辱します。

このシーンでちょっと気になるのは、ペトルーニャに大学を出ていて仕事は秘書希望だとプライドを感じさせる言い回しで言わせており、また、ペトルーニャが責任者のところへ向かう時、多くの女性たちがいわゆる労働者として働いている間を毛皮(多分フェイクファー)を着させてカツカツカツと歩かせていることになにか意図はあるんだろうかということです。

これと関連することとして、後半にペトルーニャが検事の尋問を受けるシーンで、大学で歴史を学んだというペトルーニャに検事が何が好きだ? アレクサンダー大王か? と尋ねますと、ペトルーニャは「中国革命。共産主義と民主主義の統合に興味がある(字幕)」と答えています。

何をどう見てほしかったのか興味があります。

ペトルーニャ、十字架をつかむ

帰り道、ペトルーニャは、最初に書きました「神現祭」に遭遇します。橋の上から司祭が十字架を投げ入れます。

男たちが川に飛び込んでいきます。

ペトルーニャも飛び込み十字架を手にします。男たちは「女が取った!」「女は十字架を取れないはずだ!」と大騒ぎになります。

ペトルーニャが十字架を手にした映像がネットに拡散し、取材に来ていたレポーターのテレビ中継も入り全国的な事件となります。

ペトルーニャは男たちに十字架を奪われたりしながらも最後は取り返し家に戻ります。母親は、罰当たり(言葉は違うかも)!と激しく非難します。

ペトルーニャ、拘束される

ペトルーニャは警察に拘束されます。ただ、全国的に知れ渡っていることもあるのでしょう、強硬手段などはとられません。

ペトルーニャがしきりに「私は逮捕されたの?」と尋ねており、それがペトルーニャの逮捕されるわけはないという自信を見せようとしているのか、逆に不安を見せようとしているのかはっきりしませんが、どちらにしても演じているゾリツァ・ヌシェヴァさんがとてもよく、その存在感が映画をもたせています。

警察では、署長の事情聴取があったり、司祭がやってきて十字架を返せば万事解決みたいな話があったり、埒が明かないのか署長がもう帰っていいと言い、ペトルーニャが外に出ますと裸の男たちの暴徒に取り囲まれて水を浴びせられ署内に逆戻りしたり、ひとりの警官と親しくなったりと、いろいろ面白いシーンはあるのですが、やや散漫でもあります。

同時に女性レポーターの取材も続いており、こちらももうひとつの映画の軸になっています。

レポーターは電話で上司にこれは取材すべきだと主張し譲りません。最後には上司の指示で帰ろうとするカメラマンからカメラを取り上げひとりで取材を続けようとします。また、プライベートでは別れた夫が預けてある子ども迎えに行く日なのに約束を守らず電話で言い争ったりと問題を抱えている女性でもあります。

神は存在する、その名はペトルーニャ

物語としてはやや有耶無耶ではありますが、ペトルーニャは開放されます。親しくなった警官は連絡するよとペトルーニャを送り出します。

そして、司祭と一緒に警察署を出たペトルーニャは、清々しい面持ちで司祭に十字架を差し出し、

「これはあなたたちにこそ必要なもの、私には必要ない」

と言い、雪の中の一本道を帰っていきます。

テオナ・ストゥルガル・ミテフスカ監督

テオナ・ミテフスカ監督のインタビューが公式サイトにあり、この映画は2014年に北マケドニアの町シュティプで実施に起きた事件をもとにしているそうです。その女性は現在はロンドンに移住しているらしく、監督が言っているように、その町に残ることは出来なかったのでしょう。

テーマは明確で、いかに社会が女性に抑圧的にはたらいているか、そしてその理由は男性が自分たちの権力保持のために様々に社会規範を張り巡らせているということです。

そうしたかなり直接的なテーマであるにもかかわらず映画はとても見やすいものになっています。映画は現実的でありながらどこか寓話的でもあります。テオナ・ミテフスカ監督の風刺を効かせたセンスとペトルーニャを演じたゾリツァ・ヌシェヴァさんの存在感に起因していると思います。

なお、レポーターを演じているラビナ・ミテフスカさんは監督の妹さんで、監督ともに制作会社「シスターズ・アンド・ブラザー・ミテフスキ」を運営しているそうです。

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