ペトラは静かに対峙する

人の心情を描かずして悲劇は描けるか

原題は単に「Petra」なのに、「ペトラは静かに対峙する」なんて邦題をよく考えついたものだと思います。それだけ配給の担当者の思い入れが強いということなんでしょうか。

監督は、現在49歳くらいのスペインのハイメ・ロサレス監督、公式サイトによりますと日本での公開は初めてですが、2000年代から活躍されており、本作で6作目とのことです。

ペトラは静かに対峙する

ペトラは静かに対峙する / 監督:ハイメ・ロサレス

特徴的なのは、人の心情を追わない物語の運び方とカメラワークです。ただ、どちらも目新しいというわけではありません。

心情を追わないとはどういうことかと言いますと、人が行う行為やその結果は描いても、なぜその行為に至ったかは描かないということです。ある人物が人を殺したとしますと、殺す行為は描きますが、なぜ殺すにいったか、そしてその後何を感じたかなど、その人物の心の動きは一切描かないということです。

この映画の中には、言葉に表しつくせないほどの「憎しみ」が詰まっています。ふたりが自殺し、ひとりが殺されます。しかし、「憎しみ」は描かれていません。とは言っても、憎しみのない自殺や殺人を描こうとしているわけはありません。もしそれを描いていたら、それはそれですごい映画だとは思いますが、この映画、間違いなく「憎しみ」が存在することを前提に作られています。

ですので、描く側がその「憎しみ」を描かなければ、見る側は自らの「憎しみ」の概念で理解しようとするしかなく、多くの場合、それはまったくもってベタなものとなりやすく、であるから新しい発見はないかと見に来ているのに、オイ、オイ、そりゃないぜということになってしまいます(笑)。

なぜそうした憎しみに満ちた物語をこの手法で描き、そこから何が得られると考えたのか、私には全くわかりません。

新聞記事を読んでいるようなものです。この映画のすべてが一箇所で起きることはないにしても、その一つ一つは、自殺や殺人に結びつくかどうかは別にして、現実にも起きていることでしょうし、小説や映画では頻繁に題材にされることです。誰にでも想像できる範囲のものといえます。

ウィキペディアに詳細なストーリーがありますので経緯は書きませんが、ベタに想像すれば、家政婦のテレサが自殺するのは、ジャウメにレイプ(肉体的暴行がなくてもレイプ)され、それを息子に話すと脅され、さらなる屈辱を突きつけられたからですし、ルカスが自殺したのは、近親相姦の罪悪感と父子間の愛憎の間で殺人よりも自死を選んだということですし、パウがジャウメを殺したのは復讐ということになります。

映画を見て、こんなありきたりの想像しても楽しくはないですわね。

そうじゃないだよ、ジャウメには決して死に絶えることのない悪霊が乗り移っているんだよとか、実はすべてペトラが仕組んだことなんだよとか、そういうのが欲しいですよね(笑)。

まあ、いずれにしても観念的に話が作られすぎています。いったんは自分は父ではないと語ったジャウメが、わざわざペトラを訪ねてまで実は父親なんだと言いに行ったり、言われるだけで(対峙もせずに)信じてしまうペトラといい、挙句の果てに、マリサが、ルカスはジャウメの子じゃないと明かして話のつじつまを合わせるような結末にしたりと、ここまで話を作るのであれば、もっとどろどろに描けばすごいものになったんではないかと思います。

七章仕立ての順序を入れ替えているのは全く意味がありません。

カメラの位置取りやステディカムらしいゆったりした動きのカメラワークは、最初のシーンでふむふむと思い、彫刻や絵画のイメージに結びついていくのかなあと期待してみていたんですが、それだけでした。そもそも彫刻家であることや画家であることがほとんど生きていません。ペトラも画家をやめたですましていましたし、ジャウメもビジネスライクなことを話していいましたし、別に彫刻家でなくても中小企業の社長さんでよかったんじゃないのと思えてきます。

それほど酷くはなかったのですが、何だか酷評になってしまいました。

ペトラは「マジカル・ガール」のバルバラ・レニーさん、「誰もがそれを知っている」にも出ていました。マリサをやっていたマリサ・パレデスさんは、「オール・アバウト・マイ・マザー」の女優役などアルモドバルの映画にたくさん出ている方なんですね。ルカスのアレックス・ブレンデミュールも、すぐには思い浮かびませんが、結構見ている俳優さんでした。