パピチャ 未来へのランウェイ

女性の抑圧よりもヨーロッパのいらだちを感じるのだが…

「パピチャ 未来へのランウェイ」との邦題から、イスラム社会にある女性抑圧をはねのけてファッションショーを実現する女性たちの話かと思って見に行きましら、半分は合っていて半分は違っていました。

ファッションショーを実現する女性たちというのはその通りですが、それに対して起きることが「女性抑圧」を越えており、「文明の衝突」から起きるテロ事件という結末でした。

予想を越えた展開にちょっとびっくりしました。

パピチャ 未来へのランウェイ

パピチャ 未来へのランウェイ / 監督:ムニア・メドゥール

映画の背景

1990年代のアルジェリアが舞台です。当時のアルジェリアを知らないと理解するのが難しい映画です。ウィキペディアからの引用です。

1980年代後半から一党制や経済政策の失敗に不満を持った若年層を中心にイスラーム主義への支持が進み、1991年の選挙でイスラム原理主義政党のイスラム救国戦線が圧勝したが、直後の1992年1月に世俗主義を標榜した軍部主導のクーデターと国家非常事態宣言によって選挙結果は事実上無効になった。このクーデターにより国内情勢は不安定化し、軍とイスラム原理主義過激派の武装イスラム集団との内戦(アルジェリア内戦、1991年12月26日 – 2002年2月8日)により10万人以上の犠牲者が出た。 

映画の冒頭に事実にもとづいているとのスーパーが入っており、どの部分が事実にもとづいているのかはわからないにしても、こうした背景があれば、主人公ネジュマの姉が訪ねてきた黒ずくめ(服装名が難しいので黒ずくめ)の女性にいきなり射殺されたり、ネジュマが決行したファッションショーに武装集団が乱入して銃を乱射したりするシーンも理解できなくはありません。

この映画には確かに女性抑圧が描かれてはいますが、結果起きることはテロ事件です。

ネタバレあらすじ

大学生のネジュマは学生寮に入っています。ファッションデザイナーを目指しており、友人のワシラとともに寮を抜け出してはナイトクラブで自作のドレスを売っています。

寮の管理人にはお金を渡して門限(多分そういうこと)時間外でも出入りしたり、寮内では音楽をかけて踊ったり、もちろん服装はイスラムの服装ではありませんし、フランス語も使われて比較的自由な印象です。

ただ、クラブに行く途中にはイスラム原理主義集団の検問にあい危険を感じたり、寮には女性にイスラムの服装を指示するビラが貼られたりと社会には不穏な空気が流れています。

寮内にはフランス的(元フランスの植民地だから)価値観の自由さがありますが、外へ出れば上に引用した社会背景という状態ということです。

ネジュマとワシラは行動をともにすることが多く、クラブで声をかけてきた男性二人と親しくなり、後にそれぞれ付き合い始めます。

寮内の友人には柄物ではありますが常時ヒジャブをつけているサミラやあまり人物描写のない(見落としただけかも)カヒナがいます。

ある日、ネジュマが実家に帰ろうとバスに乗っていますと、黒ずくめの女性(男性だったかな?)が乗り込んできて女性たちにヒジャブを配り着けろと強制し始めます。ネジュマは拒絶しバスを降ります。雨の中を自宅に向かって歩いていますと姉のリンダが車で通りがかり乗せてくれます。

姉はジャーナリストで自由人です。あなたなら必ずデザイナーになれると励ましてくれます。父親は亡くなっているようです。母親はネジュマをあたたかく見守っています。

ネジュマが寮に帰ろうと家を出たときです。黒ずくめの女性がリンダは? と尋ねますので家の中にリンダ!と呼びかけそのまま歩き始めます。ネジュマの後ろで銃声がします。ネジュマは硬直したまま一歩も動けません。

リンダの死で悲嘆に暮れるネジュマですが、殺される前に母親とリンダが教えてくれたハイクという一枚の布のことを思い出し、その一枚の布から様々なデザインの服を作りファッションショーをやろうと決意します。

寮の仲間たちの協力でショーの準備は進みます。

そんな時、サミラが妊娠していると泣きながら相談してきます。サミラはつい最近兄から婚約を強制されたのですがお腹の子どもの父親は付き合っている恋人だと動揺しています。(誰かが)合法的に中絶できる期間は過ぎていると言います。

ネジュマとワシラが件の男性二人とデートに出掛けます。その途中の車の中、ネジュマとワシラの相手の男性の間で女性の服装について口論となります。ネジュマと同じ考えのはずのワシラも男性を愛し始めているようで一緒に車を降りてしまいます。

ネジュマの相手の男性が家族と一緒にアルジェリアを出るから一緒に行こうと誘います。ネジュマは、私の国はここなの、ここに満足している、私は戦うと主張し帰ってしまいます。

ネジュマがやけっぱちになり作った服を切り刻んだりと、ファッションショーも頓挫しそうになりますが、ワシラが目のまわりを黒くして戻ってきたり(男性に殴られた)、(画はないが多分)サミラが産む決心をしたりと再びショー実現に向かって歩み始めます。

ある日、皆が留守にしている間にイスラム原理主義集団によってショーの準備のための部屋が荒らされミシンが破壊され作った服も破られてしまいます。

落胆するネジュマですが、布を縫わなくてもひだを入れたり纏ったりすればドレスになることを思いつき、ショーを決行しようとします。一旦は危険ということで許可が出なかったのですが、ネジュマたちの熱意が勝り許可されます。

そしてファッションショーの日、モデルのワシラやサミラたちも、そして客席の寮生たちも大盛りあがり、フィナーレにデザイナーのネジュマが登場したその時、バチッと音がして停電してしまいます。

イスラム原理主義集団が乱入し銃を乱射します。死人(ワシラも?)が出ています。

後日、実家のネジュマのもとにサミラがやってきます。サミラのお腹は大きくなってきています。ここで暮せばいいと言うネジュマに、サミラが、あ、動いたと笑顔で言います。ネジュマはサミラのお腹にそっと手をおきそのお腹にキスをします。

イスラム社会の女性抑圧は描かれているか?

女性への社会的抑圧構造というのは様々な形をとって女性に襲いかかりますが、この映画では、リンダの射殺、ショー会場での銃乱射という極端な暴力的行為としてクローズアップされています。

実際には、ネジュマへの精神的な抑圧や女性の性的対象化といった、日本でも前景化している点が描かれたり語られたりしているにしても、やはりインパクトとして暴力行為が印象に残ってしまいます。

ですので、映画の結果として、この映画を女性への抑圧を描いた映画と見るのは難しいのではないかと思います。その意味で冒頭に「文明の衝突」からのテロ事件と書いたのですが、イスラム原理主義が大きな力を持っている社会では女性の置かれている状況を性差の視点だけから語るのは的を得ていないように思います。

もちろんイスラム原理主義の女性抑圧を肯定するつもりはありませんが、文明の衝突という視点で語らない限り、この映画で言えば、ネジュマはイスラム原理主義から見れば西欧化した反イスラムの人物としか見えず、そこでは性差のいう見え方はしていないのだろうと思います。

ですので、仮に男性が社会規範としてのイスラムに反する行為をしたとしてもこの映画と同じことは起きるだろうということです。確かに西欧的価値観からすれば女性に対する抑圧構造はより顕著に映るんだろうとは思いますが、日本も含めて西欧的文化圏の中の女性抑圧と同じ視点でみていけば、結局さらなる対立しか生まないのではないかと思います。

話があらぬ方向にいきそうになってきましたが、言いたいことは、この映画は西欧的価値観で育ってきた女性がイスラム的価値観を強要され、それに抵抗したことで生まれた悲劇を描いているということです。

この映画を批判したいのではなく、西欧的価値観でイスラムを批判したり攻撃しても何も生まれないのではないかということです。

じゃあイスラム社会において抑圧されている女性をどうすればいいのか?

その答えを見いだせていない現実ではありますが、あえて言えば、内なる革命か、外からの融和しかないのだと思います。

慌ただしい撮影手法はネジュマのいらだち?

ほぼ全編、ハンディカメラを使ったアップの構図で細部を撮る手法が使われています。それぞれのシーンの全体を見られるカットはかなり少ないです。

率直に言って、見ていて疲れますし次第にいらだちに変わってきます。それでもそのいらだちはネジュマのいらだちのほんの一部なんだろうと気持ちを押さえて見るしかないという映画です。

ムニア・メドゥール監督のアイデンティティがどこにあるのか、そのプロフィールを読んだだけではわかりませんが、そのややあざとくみえる映画手法だけではなく、物語自体にもアルジェリアの内なる怒りという感じはしません。

あるいはヨーロッパのいらだちか?

やはりこの映画を見て感じるのはアルジェリアの怒りではなくヨーロッパのいらだちです。

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