マイ・エンジェル

マリオン・コティヤールさんの熱演は認めますが、もういい加減…

またもこれかい! ネグレクトを愛情視点で描いちゃダメでしょ! という映画です。それに、子どもを救うのが擬似父親ってのもどうなんですかね…、ひと昔前の価値観じゃないでしょうか。

マイ・エンジェル

マイ・エンジェル / 監督:ヴァネッサ・フィロ

物語に目新しさはありません。

ネグレクトの母親マルレーヌ(マリオン・コティヤール)が8歳の娘エリー(エイリーヌ・アクソイ=エテックス)を放置して男に走ります。母親の愛を失い絶望の淵に追いやられた娘は生死をかけた訴えをおこします。それを見た母親は必死に娘を抱きしめます。あたかも、そこに愛があり、愛がすべてを解決するかのように、という話です。

内容的にはしょうもない映画なんですが、マリオン・コティヤールさんにこんな役ができるんだという驚きと、撮影時8歳の子どもにこんなことやらせていいのかという疑問と、そしてヴァネッサ・フィロ監督、内容に比して映画作りの面では結構うまいかもと感じた映画です。

前半はとにかくマルレーヌのしょうもなさを徹底的に描きます。

どアップで動き回るカメラに、また(個人的感想)これか!?とかなりうんざりしたんですが、マルレーヌの無秩序、混乱、乱脈、早い話無茶苦茶な生きざま、生活環境を描くにはぴったりだったようです。見ていてうんざりします。まだクスリをやらないだけマシとも言えますが、結婚式でも酔いつぶれ、あろうことか式の真っ最中に厨房で他の男と性交するという、さらにその場を結婚相手の男に目撃されてしまいます。

あの目撃シーン、マルレーヌの目が素面のようだったのはちょっと気になりました。忘我のうっとりするような目にしておけばさらにマルレーヌのハチャメチャが伝わったのにと思います。

マルレーヌにとって結婚がどういう意味を持つのか、つまり、相手の男に夢中なのか、金銭的な計算なのかなどなど、そうしたマルレーヌの意識や生活環境はほとんど描かれていません。

そうしたツッコミがないからだと思いますが、前半はマルレーヌの自堕落さを描くことに一本調子で、結構飽きてきます。マリオン・コティアールさんの熱演があまり生かされていなく残念ですね。

後半はエリーの映画です。

パーティーがあり、マルレーヌはエリーに化粧までさせて連れて参加します。後にエリーの友だちの母親も出てきますので預かってもらえばいいのに、というのは余計な話で、クラブの入口で子どもはダメと言われるのを無理矢理連れて入っていました。いくらフランスでもあれはダメでしょう。

マルレーヌはエリーをタクシーに乗せて家に帰らせ、自分は男と姿を消してしまいます。何日くらいいなくなったのか映画は語っていませんが、エリーに苦難の日々が続きます。

この映画が異様なのは、エリーが食べ物に困ったり、お腹を空かしている様を描くのではなく、エリーが母親の真似をしてお酒を飲み、化粧をし、まるで娼婦であるかのように同級生の男の子たちにからかわれるところを描くのです。 

エリーがお酒を飲むシーンは前半にもありましたが、後半ではボトルからラッパ飲みするようなシーン続きます。もちろん映画ですからお酒ではないことはわかりますが、こうした演技というのは演じているエイリーヌちゃんに悪影響というのはないのでしょうか?

一年くらい前に見た「フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法」でも書いていますが、この子の将来は大丈夫だろうか?と思います。


その記事にも書いていますが、こうしたネグレクトの映画を撮っちゃいけないということではなく、ネグレクトによる子どもの悲劇を描けば見るものの感情を動かすことは簡単ですが、映画人はそうではない方法によってその悲劇を描く努力をすべきだということです。

たとえば、この時、マルレーヌは何をしているんですか? この映画の後半、ラストをのぞいてマルレーヌはまったく登場しません。マリオン・コティアールさんであれば、前半の滅茶苦茶加減の延長線でネグレクトとはいったいどういうことなのかを描くことは可能でしょう。

存在のない子供たち」でも同じことを書いています。安易に子どもを使って同情を誘ったりするのではなく、大人を描くべきです。

エリーはフリオ(アルバン・レノアール)という父親くらいの年齢の男性と出会います。フリオの父親がエリーのアパートメントの隣りに住んでいるらしく(一度も出てこない)、一度見かけたことで親しみを感じたのでしょう、母親がいなくなってから慕うようになり、離れなくなります。

フリオは、高飛び込み(競技なのかよくわからない)で心臓を悪くしているのか、死に損ねて移植しているのか、もう高飛び込みができないと言い、よく飛び込んでいた崖にエリーを連れていきます。

母親がいなくなったエリーですが、学校へは通っています。リアリティを求めればやや疑問なんですが、特に気にはなりません。こうした映画の進め方はヴァネッサ・フィロ監督、結構うまいなあと思います。

学芸会で主役の人魚姫を演じることになります。こうした学校絡みの描写の中で子供たちからの虐めにあうのですが、一番気になるのは、同年の男の子に、エリーに対して(大人の)男と女が何をするのか知っているかと言わせ、エリーにキスをさせたり、それをイメージさせるようなシーンを入れていることです。

演技だからといって、こうした歪んだ形で性的なことを演じさせることは許されるのでしょうか。

発表会の日です。マルレーヌは何事もなかったかのように戻ってきて、客席に座っています。フリオも見に来ています。エリーの登場です。しかし、エリーは舞台裏で子どもたちの虐めにあい、衣装を破られ出てきません。

シーン変わって、エリーがフリオが教えてくれた崖に向かって歩いていきます。不思議と学芸会はどうなったの?という感じはしません。これもヴァネッサ・フィロ監督に、何某か才能を感じる所以です。

こうした、ん?今の何?みたいなカットが時々挿入されたり、幻想シーンなのか現実なのかわからないシーンがあったりしますが、ほとんど気にならず、映画としてスムーズに流れています。編集者のセンスなのか、監督の力なのかはわかりません。

で、映画です。もう結末はわかりますね。エリーが崖から飛び込み、フリオが助けに飛び込みます。フリオは死ぬのかなと思いましたが無事でした。

そして、エリーを抱きかかえるマルレーヌ。

ダメでしょう、こんな安易な結末は! もういい加減、こうした安易なドラマから一歩先へ進めてほしいものです。

君と歩く世界 (字幕版)

君と歩く世界 (字幕版)