旅立つ息子へ

親子の感動物語として売るのは日本映画界の悪しき行い

自閉スペクトラム症の青年と父親の物語です。監督はイスラエルのニル・ベルグマンさん、東京国際映画祭で2度グランプリを受賞している監督だそうです。なぜかまったく知りませんでした。

旅立つ息子へ

旅立つ息子へ / 監督:ニル・ベルグマン

父親の子離れ物語 

映画が始まってすぐに分かりますのであえて書くのもなんですが、この映画は自閉スペクトラム症(以下、ASD)の青年の話ではなく、その父親の話です。また、ASDの子どもをもった親がどうすべきかという話でもなく、やや極端な言い方になりますが、子離れできない父親の話です。

どういうことかと言いますと、個別の話ではなく一般論としてですが、ASDの子どもをいつまでも親の保護下だけに置くということは好ましいことではなく、いずれ限界が来るだろうことを考えれば、どうすべきかは、本人、親、そして行政等の支援組織で話し合って決める必要があるということで、この映画は、その段階を経た後に父親がなおも子どもを手放したくないと抵抗する話です。この映画が描いている問題は、ASDの息子でなくても、また親子関係でさえなくても、自分が誰かを庇護しなくてはいけないと思い込んでいる人物であれば起きうる物語です。

ですので、この映画は「世界中がこの美しい親子愛に大粒の涙!!」などという感動ものとして売るのではなく「親子愛を取り違えた父親の気づきの物語」と言うべきかと思います。

ネタバレあらすじとちょいツッコミ

父親アハロン(シャイ・アヴィヴィ)はASDの息子ウリ(ノアム・インベル)と二人で暮らしています。ウリの年齢は20代前半と思われます。

二人が自転車ツーリングから帰ってくるところから始まります。ウリが立ち止まって動こうとしません。カタツムリがいると言います。アハロンがいないと言っても聞きません。アハロンはカタツムリを踏まないように抜き足差し足で歩き始めます。ウリも同じようにして後についていきます。

ASDについていくつか読んでみますと幻覚を見ることはあまりなさそうです。統合失調症ではそうしたケースがあるようです。

家に戻りますと別居中の妻のタマラが来ています。要件はウリを支援施設に入所させるための確認のようです。アハロンはタマラをそっけなくあしらっています。

公式サイトによれば、「定収入のないアハロンは養育不適合と判断され、裁判所の決定に従うしかなかった」ということのようで、映画の中で分かってくることは、アハロンはグラフィックデザイナーであり、かなりの高収入(後半で弟が1000万円くらいの年俸を棒に振ってと言っていた)を断り、本人によればウリのために田舎に引っ越して現在は定収入はない状態です。

すでに青年となったウリをどうするかは夫婦の間でも幾度も話し合われて結論は出ており、アハロンも承諾している状態から映画は始まっています。本当にASDについての映画を撮るつもりならこの前段階を描くべきでしょう。この段階からの映画としているわけですから、監督としてもこの映画のテーマは父親の方との意識はあると思われます。

ウリが興味を持っているものはチャップリンの「キッド」を見ることと飼っている金魚の世話をすること、そして好きなものはアハロンの作る星型パスタとピザ屋のノニ(かな?)が持ってきてくれるピザです。また、すべての判断をアハロンに「僕は〇〇が好き?」と委ねるようになっています。

アハロンは、ウリに自分と一緒にいたいと言うように仕向けたりしますが、すでに入所は決まっているということでしょう、アハロンの思うようにはなりません。そしてウリの入所の日、アハロンはウリとともに列車を乗り継いで施設に向かいます。

なぜタマラは車で迎えに来ないの?とのツッコミは無用です。ここから二人の逃亡が始まります。ただアハロンが計画していたということではなく、本音では望んでいたとしても、直接的な理由はウリが駅でパニックを起こし動かなくなったことです。

逃亡中のエピソードが綴られていきます。

まず、友人の女性(名前は記憶がない)を訪ねます。しかしたまたま母親を亡くしたところらしく落ち込んでいます。アハロンは挨拶もそこそこにそこを去ろうとしますが、逆に女性がいてほしいと言います。

女性はデザイナー仲間か、ともに学んだ古い友人か、そんな感じです。このシーンの中でアハロンはそれなりに名の知れたデザイナーであることが女性の友人たちとの会話の中で語られます。また、その日の夜、ウリが眠った後、二人がアハロンの作品を見て会話するシーンがあり、アハロンが最近その絵が売れた、〇〇(金額)も出して買うやつがいるなんてとやや自虐的に語ります。

後にわかりますが、その絵はアハロンの弟が買っています。

女性はアハロンに一緒にここにいてといった意思表示をしますが、アハロンはウリが心配だと言いながら女性の寝室から出ていきます。

翌朝、女性の家を出たアハロンはなけなしの金でホテルに泊まることにします。そして海外へ逃亡することを思いつき、ピザ屋のノニに自分たちのパスポート送ってほしいと電話をします。しかし航空券の手配をしようとしますとクレジットカードが利用停止になっています。カードはウリのものでタマラが管理しているのです。担当者がタマラに連絡をとろうとしたスキにその場を逃げ出し、さらにホテルからも逃げます。

次に弟のもとに向かいます。弟はなんとなく状況は理解しているように見えます。お金を貸してほしいというアハロンに、弟は1000万円の年俸まで捨てて何をしようとしているのだと意見します。アハロンはそのシーンの前に自分の絵が弟のもとにあることを見ていますので逆ギレして立ち去ってしまいます。

アハロンが海岸で眠っています。アイスクリーム売りがお金をくれと起こします。ウリがアイスクリームを食べています。アハロンはお金がないと言います。アイスクリーム売りはウリの手からアイスクリームをもぎ取り捨ててしまいます。怒ったアハロンは、ウリは何もわからないんだ!とアイスクリーム売りに殴りかかり馬乗りになってさらに殴り続けます。ウリの顔がひきつっています。

アハロンは逮捕されます。

後日(時の経過はわからない)、ウリは支援施設に入所しています。アハロンはひとりで暮らしています。

施設でトラブルが起きます。ウリがガラスを割ったというのです。施設の担当者は施設ではあずかれないと言います。また、なぜガラスを割ったかがわからないと言います。アハロンが「キッド」だと言います。つまり「キッド」では、孤児のキッドがガラスを割り、駆けつけたチャップリンが修理をすることで生計を立てていたわけですから、ガラスを割ればアハロンが来てくれると考えたということです。

私はアハロンの暴力行為をウリが真似たのかと思いました。

とにかく、どうすべきか迷いを持ったタマラはアハロンにあなたのいいようにしてと言います。

あらためて施設を訪ねたアハロンはウリに帰って星型パスタを食べよう、ノニにピザを持って来てもらおうと言います。しかし、ウリは絵を描くワークショップに行ってしまいます。

やっと理解するアハロンです。

親子愛の勘違いに気づく父親物語

映画ですから、単純化やドラマ重視もわかりますが、もしASDを描くのであれば、少なくともこの最後の件のウリがどう変化したのかをもう少し丁寧に描いてほしいと思いますし、もしこの映画は父親物語であるとの認識があるのであれば、海外逃亡まで考えたアハロンがなぜこうもあっさり変わってしまったのかにこだわって欲しいと思います。

それにこの映画には第三者の目があまり意識されていません。ウリがパニックになる駅のシーンで白い目をして通り過ぎていく通行人としてしか描いていません。多くを望みすぎてもいけませんがそれでは何も変わりません。

またこの映画を売る側にしても、結果としてアハロンが間違いに気づいているからいいにしても、感動的な親子愛を強調して売ることはあまりよくないのではと思います。

先日あるツイートを目にしました。

保育園の卒園式で大声を出す子がいたという話で、家で自分の子どもにどう思った?と聞いたら、「A君の声が出るのは仕方ない。A君はお喋りができない。だから身体の中に声がたまってしまう。その声を出さなくちゃいけないんだよ。だからA君の声が出るのは仕方ないんだ」と答えたということです。

何とも示唆的な話です。

ギルバート・グレイプ(字幕版)