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「幸福なラザロ」(ネタバレ)聖人を思わせるラズロの澄んだ瞳があっての映画

この映画、しばらく前に見たのですが、なんとなく書くポイントが定まらずそのままになっていました。前作の「夏をゆく人々」に比べれば、この「幸福なラザロ」はかなり明快なんですが、それでも、なんと言うのでしょう、これは決して批判的に言うのではなく、映画がぼんやりしている感じがします。

 

幸福なラザロ

幸福なラザロ / 監督:アリーチェ・ロルヴァケル

 

そう感じさせる理由はいろいろあるんでしょうが、まず、時代(背景)がわかりにくいです。結局、ラザロがよみがえる後半が現代ということであれば、登場人物の年齢からして、前半は30年くらい前になり、その30年前はともかく、現代のシーンでさえ時代や社会との接点が見えにくいこともそのひとつです。

 

映像も古臭い感じがします。スーパー16mmフィルムで撮られているからなんでしょうが、今では眼がデジタルに慣れてしまっていますので、これは、逆にこの質感で撮ることがひとつの主張になっているのだと思います。

 

物語でいえば、この「幸福のラザロ」は現実にはありえないことをやっているわけですから寓話的ということになり、ましてやそのありえないことが宗教的な出来事ですので余計に現実感から遠ざかっていきます。

 

そして、そうしたことから浮び上がってくる主題は、文明批判がベースにあるにしても、どちらかといいますとそれが逃避的に向かっているようにみえます。

 

山間に時代から隔離されたような村があり、数十人が暮らしています。電気は通じているようですが、誰かが暗闇で電球を貸してと話しています。

続いて、バグパイプのような音色の音楽が始まり、求婚の儀式のようなことが始まります。乾杯するといってワインが出てきますが、わずかコップ一杯ほどを皆で一口ずつ回し飲みします。結婚した二人は村を出ていくと宣言します。侯爵夫人が許さないぞといった声がします。

 

村人たちは家族単位というよりも全員がひと家族のような暮らしぶりです。

 

翌日でしょうか、男がトラックを引き連れてやってきます。男が子どもたちに飴を配ったりしています。結婚した男女が村を出ていく言い、トラックに乗り込もうとしますと、男はだめだといいます。男女のうち、男が素直に引き下がりますと、女もぷりぷりしながらも引き下がります。

村人たちがトラックに煙草の葉を積み込みます。男は村人たちの前で帳面を広げ計算をし始め、村人たちが何かを欲しいと言いますと、それを計算し、(忘れてしまいましたが何リラとか言っていたんでしょうか)結局、村人たちは、また現金収入はなし、負債が増えたみたいなことを言っています。

 

このあたりではまだはっきりしないのですが、村人たちは何者かに雇われるかして煙草農園で働いている、といいますか、小作農として生活しており、男はその代理人として動いているということのようです。

 

この一連のシーンでの村人たちの描き方ですが、誰も不満を口にすることはありません。便利な生活とは程遠い環境であり、食べるものも満足にあるとも思えません。しかし、村人たちは牧歌的であり、子どもたちも元気よく遊び回っていますし、大人たちも穏やかな表情をしています。満足であるとか不満であるとかの感情を感じさせる描写は一切ありません。そういうものだと受け入れているという印象に描かれています。

 

村人の中にラザロという青年がいます。おばあちゃんと呼ばれる者はいますが、それが本当の祖母なのかどうかもわかりませんし、両親であるとか兄弟がいるともいないともわかりません。ただ、これも特別ラザロがそうだということではなく、そもそも家族単位の共同体の印象はありません。

 

ラザロは素朴で従順で働き者と言われています。頼み事を断ることはありません。人を疑ったりすることもありません。その澄んだ瞳でじっと見つめるだけです。

こんなシーンがありました。

煙草農園の収穫です。カメラは人が隠れてしまうほどの煙草農園を俯瞰でとらえています。老若男女の村人が葉を収穫しています。ラザロ!と声がかかります。ラザロが収穫された葉を受け取りトラックに運びます。また別のところからラザロと声がかかります。他からもラザロと呼ばれます。次第に、ラザロ、ラザロと重なるように声がかかります。その様子は、まるで天に向かって聖人の名が呼ばれているようにも感じられます。

 

農地の所有者である侯爵夫人が息子のタンクレディと代理人の男とその娘を連れてやってきます。

 

これ、何をしにやってきたんでしょう? 村で生活しているわけでもなく、必然性は感じられませんでしたが、村には屋敷もあり、村人の娘アントニアを侍女のように使っていましたので、避暑のようなことなんでしょうか、聞き逃しているかも知れません。

 

映画では、侯爵夫人はさして重要人物ではありません。タンクレディです。ラザロと同年代くらいです。金持ち特有の倦怠感なんでしょうか、わけもなく(と思える)自作自演の誘拐騒ぎを起こし、ラザロが教えてくれた山の上のラザロの隠れ家に隠れます。疑いを持つことを知らないラザロは自ら食べ物を運んだりします。その行為は、タンクレディを助けようとしているのではなく、必要だろうと思うからそうしているだけで、そこには感情というものが介在しているようには描かれていません。タンクレディは友情の証のつもりなのか自作の木製パチンコをラザロにあげます。

 

タンクレディは身代金を要求しますが、侯爵夫人は見抜いており無視します。村人たちも気にもしません。ひとり代理人の娘だけが大騒ぎし、やがて警察がやってきます。

 

ここで事の真相が明らかになります。

小作制度はすでに禁止されており、侯爵夫人はそれを隠蔽して村人たちを自分の領地に縛り付け労働搾取していたのです。警官は驚き、村人たちを山間の村から退去させます。

 

これ、よくわからなく、本来なら、退去ではなく、農地を分け与え、あるいはこれまでの給料として農地を分割して自作農として生活できるようにしなくてはいけないはずなんですけど…、とツッコミを入れるところではありませんでした(笑)。

 

ラズロはどうしたかといいますと、少し前から熱を出しており、ちょうどその頃、山で朦朧として崖から墜落してしまっていたのです。

 

ここまでが前半です。

崖の上にオオカミが現れラザロのもとに駆け下ります。オオカミは結構重要なキーワードで、前半でもオオカミの咆哮にタンクレディとラザロが真似をするシーンもあり、確か村人の話の中にも出てきていたと思います。

ラザロはむくっと起き上がり、傷ひとつない体で歩き始め村へ向かいます。村には誰もいません。侯爵の屋敷に向かいますと男が二人で家財を運び出しています。泥棒です。ラザロは疑うことなく手伝います。男たちは車いっぱいに荷物を詰め込み、町まで乗せてほしいというラザロを断り立ち去ります。

 

ラザロは雪の中(意図的?ロケ上の都合?)を町に向かいます。途中、ガソリンスタンドで、そこでも強盗を働く男たちと出会い、今度は乗せてもらい町に向かいます。

 

男たちの住まいは高速道路脇のスラムです。女性が出てきます。ラズロを見た女性は驚きのあまり拝むようにひざまずきます。成長したアントニアです。二人の男のうち若い方はアントニアの弟(?)のピッポで、もうひとりの男はアントニアの夫のようで村人ではないようです。

 

ラザロは昔のままですが、世の中はすでに30年ほど経っていることになります。おそらく村人たちは町にやってきて、仮に過去の給料として何らかの金銭を受け取ったとしても町の生活に溶け込めずばらばらになり、アントニアたちのような生活をしているのでしょう。

 

この後、ラザロはアントニアたちと一緒に生活します。アントニアたちの生活の糧は詐欺や泥棒稼業ということです。

 

ある日、ラザロはタンクレディと出会います。タンクレディもまた、落ちぶれて、すでに失ってしまった領地を使った詐欺(的)なことで気晴らしをしています。タンクレディは銀行に騙されて領地を失ったと言っています。

ラザロはタンクレディをアントニアたちに会わせます。気をよくした(大きくした)タンクレディは皆を翌日のランチに招待します。

翌日、皆、出来る限りの小奇麗な服装をし、手土産のお菓子を買い、タンクレディのもとに向かいます。しかし、予想に反して住まいは貧しそうです。女性が出てきますが、タンクレディは約束していないと言い出てもきません。さらに、その女性は遠慮がちながらも手土産をくれないかといいます。アントニアは、今にも怒り出しそうな夫を静止して手土産を差し出します。

 

一行は帰途、賛美歌が流れる教会に入ります。しかし、関係者しか入ってはいけないと断られます。仕方なく一行は出ていきます。パイプオルガン奏者が演奏を再開しますが全く音が出なくなります。

ラザロたち一行の後を追うように天上から賛美歌が流れています。

 

翌日、ラザロは銀行へ向かい、タンクレディのお金を返してほしいと(静かに)訴えます。ラザロの尻ポケットが膨らんでいるのに気づいた客が拳銃を持っていると騒ぎ出し、皆手を挙げるなど大騒ぎになります。

ラザロは訳がわからなく、ただ澄んだ目で皆を見つめるだけです。

やがて、その膨らみは拳銃ではなく(タンクレディがくれた)木製パチンコだとわかり、興奮した客たちはラザロを袋叩きにします。

 

どこからかオオカミがやってきて動かなくなった(死んでいる?)ラザロの周りを回り、そしてまたどこへともなく去っていきます。

 

という宗教的なアイコンが散りばめられている映画で、キリスト教に詳しくなくても「ラザロ」と聞けば、ああ聞いたことがある程度には馴染みがある名前ですが、ウィキペディアなどを読んでみますと、前半での復活はイエスの友人の「ラザロ」がイメージされているのかも知れませんし、ラストの銀行のシーンは、あるいは「ラザロと金持ち」を想起させようとしているのかも知れません。

ただ、いずれも普遍性のあることではなく、あくまでもキリスト教世界のことですので、(私には)それほど強く訴えてくるものはありません。

 

それよりも思うことは、アントニアたちが(確か)村に帰りたいと言っていたと思いますが、あたかも現在よりも小作農として生活していたときのほうがよかったと言っているようにも感じられ、気になって仕方ありません。たとえ文明社会批判がその根底にあるにしても、それはちょっと違うような気がします。

それに、そもそもの30年前の村人たちにしても、その牧歌的な暮らしぶりは、知らないことにおいて幸せであったとも取れなくもなく、それもまた、現代の過剰なる文明社会へのアンチテーゼにもみえます。世の不正を疑ったり恨んだりすることなく純朴であることは決して好ましいことではないでしょう。

主題ではないにしても、侯爵夫人やタンクレディが村人を騙していたことを不問してはいけないでしょう。

 

ちょっとばかり、斜に見すぎたかも知れません。

 

夏をゆく人々(字幕版)

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