空母いぶき

描かれるのは、戦前日本 対 戦後日本?

こういう映画のほうが危ないかもしれませんね。

東宝の戦争(賛美?)映画かと恐る恐る(笑)見に行きましたら、キノフィルムズの製作で、内容も、日本の離島が国籍不明の武装漁船団に占領され、航空機搭載型護衛艦いぶきを旗艦とする第5護衛隊群が派遣され、専守防衛の一線を越えるか越えないかのギリギリのところで相手の攻撃に対処していくという物語でした。

エンターテイメントとしてはそこそこうまくできていますし、最後には正論(言葉がちょっと違う)が勝ちますので、おお、首相も自衛官もすごいじゃん!みたいに思っちゃう人でてきませんかね。

空母いぶき

空母いぶき / 監督:若松節朗

すべて架空のネーミングですが、そっくり現実に当てはまります。離島は「尖閣諸島」、島嶼国家カレドルフは「中国」、空母いぶきは、2019年度以降の防衛大綱で空母化が明記(報道による)されたいづも型護衛艦、戦闘機はF35B、そして日本政府や自衛隊の構成も(おそらく)ほぼ現実的なものでしょう。

ですから、20XX年は数年後の2025年くらいにはやってくるかもしれない近未来です。

しかし、現実には、垂水も 秋津も 新波もいません。

そしてもうひとつ、この現実感ある物語に決定的にかけているのは「日米安全保障条約」という現実です。日本の安全保障はアメリカのアジア戦略の中に組み込まれています。この映画のラストのように国連が仲裁に入ることはありえません。

この映画、それだけ現実的な問題を多くはらんでいるということです。単純な特攻美化のような映画よりも危ういとはそういうことです。

で、映画がどのように進んでいくかといいますと、戦闘シーン自体はかなり少なく、映画的にはほとんど意味がありません。実際、敵国がミサイルを撃ってきてもことごとく遊撃しますし、戦闘機の空中戦でも一機は撃墜されますが、乗員は脱出し救助されます。戦闘という点では自衛隊の圧勝です。

ただ、映画は、そこで本当のところ、自衛隊すごーい! と言いたいわけではないでしょう。

映画が語ろうとしているのはその戦闘での勝ち負けではなく、その戦闘をコントロールする力、つまり、それは政府内で繰り広げられる「専守防衛」をめぐる内的な葛藤であり、また戦闘の現場においても、その葛藤の現実的な対立関係を二人の自衛官に反映させて、現在の日本が置かれている安全保障の分岐点を描こうとしています。

離島が占領されたとの報告を受け閣議が招集されます。

話はそれますが、あの会議は閣議のようでしたが、実際にはまずNSC(国家安全保障会議) が招集されるんじゃないでしょうか。余計な人物がごちゃごちゃいて緊急事態らしからぬのんびり感でしたが、いずれにしても主要な発言をしていたのは、総理大臣、防衛大臣、官房長官、外務大臣でしたので、そのあたりは当然と言えば当然の展開だと思います。

で、政府内での議論の要は、まず、自衛隊に防衛出動を命じるかどうかということなんですが、内閣総理大臣垂水(佐藤浩市)は苦悩します。自衛隊がこれまで戦闘によるひとりの死者も出していないこと、そして防衛出動を命じれば間違いなく死者が出ること、さらにこれが引き金になり全面戦争(交戦状態)に発展しかねないこと、そりゃ、持病があるないにかかわらず胃が痛くなるのも当然です。

その苦悩に対して、映画は防衛大臣の「ぼやぼやしていたら、この戦(いくさ)、負けるぞ!」という言葉を対置させています。

垂水は、ぎりぎりのところまで悩み、最終的には防衛出動を命じます。と同時に、政府は各国や国連に対して外交努力を最大化します。

かなり単純化されてはいますが、垂水の苦悩は今の日本が必然的に抱えなければならないものであり、それは戦後日本のあり方そのものです。一方の防衛大臣の発言、さすがにこれだけ単純ではなかったでしょうが、戦前の日本と同次元にあります。

この映画は、離島を占領したのは島嶼国家カレドルフが周辺国に推し進めた「東亜連邦」としています。戦前の日本が大陸侵略の建前としていた「大東亜共栄圏」をイメージすることは割と簡単です。

さらに、この映画、その東亜連邦であれカレドルフであれ、一切姿を現しませんし、政府内のシーンでも、その存在に対するコメントは一切ありません。実際には存在しない幻想みたいな存在です。

つまり、空母いぶきが戦っている相手は意味不明な仮想国でも中国でもなく、「戦前の日本」ということになるのでしょう。

戦前日本戦後日本、多分これがこの映画の意図するところだと思います。

自衛隊指揮官の秋津艦長(西島秀俊)と副長新波(佐々木蔵之介)の対立は、集団 でしょうか。 同期の二人はともにエリートですが、秋津が航空自衛隊出身でいぶきの艦長となり、新波は生え抜きの海上自衛隊出身なのに副長に留め置かれています。

飛行機乗りがひとりで戦い、生きるも死ぬも自分の決断ということに対し、 船乗りはひとりの判断が集団の生死に関わると語られています。一概にそうとも言えなく、象徴的な意味での台詞だとは思いますが、秋津は(どちらかといえば)強硬派、新波は慎重派として描かれています。

この対立関係は、ドラマ要素という意味が強くあまり深い意味はないでしょう。秋津自身も強硬派というよりも厳格派といったほうがいいかも知れず、もちろん戦前軍部のイケイケドンドンではありません。

で、戦闘の現場ではこの二人のバランスにより的確な判断がなされ、最小の被害と最大の結果により終結します。

最小の被害についてですが、不思議なことに、この映画、自衛隊員の犠牲者についての扱いはかなり抑えて描かれています。空中戦で撃墜された一機ですが、その乗員は海上を漂っているところを救助され、同時に敵国のパイロットもひとり救助されます。そして、いぶきの甲板上、担架に乗せられ運ばれる際、脱出を図った敵国パイロットと揉み合いになり、奪われた拳銃で撃たれて死んでしまいます。

ひとりの自衛官がとっさに拳銃を抜き敵国パイロットを撃とうとします。秋津が間に入りその自衛官を止めます。

こうした人道主義的な言動は、自衛隊シーンの中では一貫して貫かれています。敵国戦闘機を撃墜したときにも、あえて、脱出したパイロットの救助指示の台詞を入れたりと、要は戦争は復讐ではないということを強調しています。

で、被害の点に話を戻しますと、この死亡した自衛隊員のその後の描写ですが、かなり抑えられており、妻と子供の写真が波間に漂うといったことくらいしかありません。

それに、かなり早い段階で、出撃した戦闘機がミサイルにより撃墜されており、乗員も救助されていないと思いますが、それに対する描写もコメントも一切なかったと思います。これ、あまりにも何もないので、私の見間違いかと思うくらいです。今でも自信がありません。

という具合に、被害については何も語らない映画ですが、一方、最大の結果とは、自衛隊のその姿勢、つまり象徴として秋津が示した人道主義が世界に知れ渡ることと、そして日本政府の外交努力により、国連(安保理)が一致して行動し、両国の仲裁に入り、この「離島事変」は終結するのです。

この「東亜連邦」の離島占領は、戦前日本が意図的に起こした「満州事変」のようなものですし、この映画で描かれる人道主義的な言動は、戦後日本にあるかどうかは別にしても、戦前日本はそれに反することを相当やってきていることは間違いないわけで、やはり、この映画の基本コンセプトは、戦前日本戦後日本 なんだろうと思います。

果たして、この事案が現政権下で起きたならば、いったいどういうことになっていたのでしょうか?

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