そんなには褒めないよ。映画評

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「金子文子と朴烈」チェ・ヒソの文子は現実の文子を思わせる

半年くらい前に金子文子の獄中手記『何が私をこうさせたか』を読んだばかりですので、個人的にはとてもタイミングのいい映画でした。月曜日の昼間に観に行ったのですが、意外にも(ペコリ)そこそこ入っており、ちょっと驚きでした。

 

金子文子と朴烈

金子文子と朴烈 / 監督:イ・ジュンイク

 

『何が私をこうさせたか』は、映画の中でも文子が獄中で執筆するシーンがありましたように、1923年9月1日に発生した関東大震災の2日後に拘束されてから1926年7月23日に死亡するまでの間に獄中で書かれたものです。

確か、判事だったか、取調官だったか(間違っているかも?)に自分の思いを書いてみたらどうかと勧められたようなことが手記の本文であったか、解説文だったかに書いてあったと思います。ちょっといい加減な記憶です。

 

その手記の印象は、とにかく100年前の日本にこうした女性がいたのかと感動することしきりです。幼少期よりかなり悲惨な環境の中で生きてきているにもかかわらず、弱音を吐くでもなく、同情を買おうとするのでもなく、ましてやほとんど教育というものを受けたこともないにもかかわらずあの手記を書く文筆能力を身につけたわけですから、その生きざまは驚嘆に値します。

 

その意味では、映画の文子(チェ・ヒソ)はその雰囲気をよく現しています。

実際にどうであったかは知る由もないのですが、迷いのない発言や行動は手記においても一貫しています。実際その時代に立ち会っていれば、あるいは現実の文子は映画の中の文子であったかも知れないと思わせます。

 

ただ、手記には朴烈と出会って以降のことは書かれていません。なぜなのかは定かではありませんが、ある意味あの手記は、なぜ自分が社会主義に傾倒しアナーキストになったかを記した陳述書のようなものなのかもしれません。

 

映画は、その手記には書かれていない物語です。

 

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朴烈(イ・ジェフン)との出会いでは、文子が朴烈の「私は犬ころである…」という詩に感動して、会って早々朴烈に同居しようと持ちかけていました。この詩、トレーラーで全文を見られます。多分日本語で発表されたものだと思いますので、ハングルのものが本人の手によるものなのか、誰かが翻訳したものなのかはわかりませんが、「나는 개새끼로소이다」でググりますといっぱいヒットします。

 

主に映画が描こうとしているのは、関東大震災後に拘束されて以降の法廷闘争ともいえるものですので、出会い以降のふたりの人間関係や活動などはほとんど描かれていません。ここらあたりはちょっと残念ですが、朴烈自身が韓国でもよく知られた人物ではなさそうですのでドラマチックな作りになるのもやむを得ないかもしれません。

 

関東大震災時の朝鮮人虐殺の経緯もかなり端折られています。流言飛語の発信元として内務大臣水野錬太郎(キム・インウ)の謀略がかなり強調されているのは、映画的には敵がはっきりしていたほうが受けがいいということもあるのでしょう。その後の法廷闘争においても水野錬太郎ひとり悪役を引き受けているような作りになっています。

 

本当は日本の監督がここらあたりのことをもっと撮らなくちゃいけないと思いますが、どういう時代背景の中で、誰が何をして、それに誰がどう反応すると(千人~)数千人もの人が虐殺されることになってしまうのか、そうした骨太の映画が見たいものです。

 

で、映画では、警察から不逞朝鮮人と目されていたこともあり、また自警団の襲撃から逃れるため、朴烈は自ら拘束される道を選び、文子もその後を追って拘束されます。

その後は、朴烈が自ら爆弾入手の計画があったと供述したり、文子が皇太子(昭和天皇のこと)暗殺計画をほのめかしたりしたために容疑が大逆罪に切り替わり、二人ともに死刑判決が下されます。

 

映画は一貫して、二人が法廷においても反権力を高らかに叫び、それに対して内務大臣の水野錬太郎が強権を発動するいう図式で描かれています。二人を英雄扱いし過ぎているきらいはありますが、韓国での興行を考えればやむを得ないところでしょう。

 

ただ、今ネットでいろいろ読みながら映画を思い返してみますと、いろいろなエピソードに関してはかなり資料を調べているのかなという感じはします。

 

予審判事の立松懐清(キム・ジュンハン)がかなり重要な役回りになっており、かなり二人に同情的な人物として描かれています。ウィキペディアでは怪写真となっていますが、文子が朴烈の膝の上に乗っている写真、あれも立松が撮らせた(許可した)写真として描かれていました。

 

あの立松という人物、映画を見ているときは検事かと思っていましたが、あの時代の刑事訴訟法には予審というものがあり、その予審判事だったんですね。ということは、文子に手記を書くように勧めたのもあの立松だったのでしょうか。

 

その他、二人が大逆罪として裁かれる大審院やその判事たちの服装も違和感を感じたんですが、ネット上の画像を見てみますとあんな感じだったようです。

 

死刑判決後わずか10日後に恩赦で無期懲役に減刑されており、このことにも裏で何があったんだろうと興味が沸くところではあるのですが、それは置いておいて、その際、映画でも「朴烈は恩赦を拒否すると言い、文子も特赦状を刑務所長の面前で破り捨て(ウィキペディア)」ていました。ただし、ウィキペディアの記事はソース不明です。どこかにソースがあるのでしょう。

 

その後、文子は7月23日に刑務所発表では縊死で亡くなっています。当然誰もが疑いを持つわけで、映画でも遺体を発掘するシーンを入れていました。

 

朴烈の方は、敗戦後の1945年10月27日まで服役して43歳で釈放されています。映画では簡単にスーパーが入っていましたが、ウィキペディアによりますと、その後は数奇といってもいいくらいの人生を歩んでいます。

ウィキペディアには「相次ぐ転向」と書かれていますが、日本帝国主義の非支配下にあっては社会主義者、あるいはアナーキストという立ち位置をとったにしても、基本的には民族主義者だったのかもしれません。

 

ということで、あまり社会背景を描けていない英雄的人物映画ではありますが、何度も言いますように、こうした映画は本来日本が撮るべきものでしょう。

 

何が私をこうさせたか――獄中手記 (岩波文庫)

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