異端の鳥

ホロコーストは収容所だけの出来事ではない

昨年のヴェネツィア映画祭で「少年の置かれた過酷な状況が賛否を呼び、途中退場者が続出。しかし、同時に10分間のスタンディングオベーションを受け」(公式サイト)たと宣伝されている映画です。

意味合いとしては、少年が悲惨な目に会い正視に耐えない映画ではあるが評価は高いという意味なんだろうと思います。

異端の鳥

異端の鳥 / 監督:ヴァーツラフ・マルホウル

しかし見てみましたら、映像自体は耐えられないような映画ではなかったです。リアリズムではありませんし、さほど具体的な残虐シーンがあるわけではありません。ある種寓話的にもみえます。もし途中退場した観客がいたとするなら、それは見るに耐えられなかったからではなく映画に期待するものの違いからではないでしょうか。

映画全体がホロコーストを暗示している

この映画は物語の吸引力や俳優の力で引っ張っていくような映画ではありません。ひとりの少年が放浪しそこで様々な目に会うわけですが、そのことに一喜一憂したり、その少年に感情移入し共感したりする映画ではありません。起きていることが何を意味するのかを考える映画です。

ところが、何も知らずに見に行きますとそれがなかなかわかりません。やっと後半になって、少年がユダヤ人であるがゆえに放浪の身にあることや父親がホロコーストに収容されていることがわかってきます。

で、あらためて思い返してみますと、170分の長尺であることもあり一体いつまで続くのだ?とやや退屈にも感じられたそれぞれのエピソード、それらすべてがホロコーストを暗示していたのだということがわかってきます。

焼かれる動物、生き埋め、眼球のくり抜き、集団リンチ、レイプ、殺戮…。

しかしながら、映画の中のそれらは決してナチスによって行なわれる行為ではありません。戦争状態でもなく普通に生活を営む村人たち、子どもたちによって為されるのです。それがこの映画の肝なんだろうと思います。

ナチスドイツの時代、東欧のどこか、ユダヤ人の少年が居場所を求めて放浪する姿を章仕立てでエピソード的に描いていきます。少年が直接的に暴力を受けたりするシーンは多くはなく目撃者としてその場に遭遇することになります。

各章は、その場その場で少年が出会うことになる人物の名前がそのタイトルとして表示され、フェードアウトでつながれていきます。少年が移動していくこと以外に各章に物語的関連性はありません。10章くらいあったのではないかと思います。

原作があります。

ペインティッド・バード (東欧の想像力)

ペインティッド・バード (東欧の想像力)

  • 作者:イェジー コシンスキ
  • 発売日: 2011/08/05
  • メディア: 単行本
 

ネタバレあらすじ

記憶は曖昧ですし、エピソードの前後もはっきりしません。ひとつひとつの章の始まりにはその章に登場する人物の名前のタイトルが出ます。その章のおわりはフェードアウトで終わります。

少年と動物(なんだったかわからない)が子どもたちに追われています。動物が捕まり、液体をかけられ火をつけられて焼き殺されます。少年は老婆と暮らしています。ある朝、老婆が椅子に座ったまま動かなくなっています。驚いた少年が持っていたランプを落とし家ごと燃えてしまいます。

放浪した少年は魔術師の老婆に拾われ、お前は悪魔の子だと言われ、手伝いをさせられます。ある日、少年は病に倒れます。老婆は少年を土に埋めます(呪術?)。少年のまわりにカラスがやってきて突っつかれ血だらけです。老婆に助け出されますが、後日、少年は村人に川に突き落とされ流されます。

水車小屋で粉挽き(かな?)を営む夫婦と使用人一家に拾われます。夫は妻と使用人の関係を怪しんでいます。ある日、夫は自分が拾ってきた猫が飼い猫と交尾するのを見て、突然食事中のテーブルをちゃぶ台返しし、持っていたスプーンで使用人の眼をくり抜いてしまいます。少年は逃げ出します。

鳥刺し(かな?)の老人と若い女のもとに身を寄せます。老人が一羽の鳥に塗料を塗り空に放ちます。鳥たちが寄ってたかってその鳥を襲います。落下します。

「The Painted Bird」が原題です。異質なものは排除されます。

女が村の少年たちを誘惑します。母親たちがその女をリンチします。女性器に瓶を思いっきり突っ込みます。老人は首を吊ります。少年はその足にぶら下がります。(おそらく早く死なせてやろうとしたのだと思う)

ある村の神父に助けられます。神父は少年を信心深い村の男に預けます。しかし、その男は小児性愛者で少年はレイプされます(その描写はありません)。少年は復讐を計画します。塹壕のような穴にねずみの大群が生息していることを知った少年はその穴に男を突き落とします。

冬になっています。凍死寸前、老人と若い女に助けられます。老人が死にます。女は少年に性交を求めます。少年は女に愛情のような感情を感じたようです。しかし、少年では性欲が満たされない女はヤギと性交する姿を少年に見せつけます。少年はそのヤギの頭を切り落とし、その頭を窓から家の中に放り込み去っていきます。

ここではないと思いますが、列車で運ばれるユダヤ人たちが列車から逃げ出すもドイツ兵に撃ち殺されるシーンがあります。また、コサック兵(かな?)が村を襲い焼き討ちし村人を殺害するシーンもあります。(少年がどう関わっていたか記憶がない)

少年はソ連軍に保護され駐屯地にいます。一人の兵士が少年の面倒を見ています。兵士は一丁の拳銃を少年に渡し去っていきます。

少年は孤児院に引き取られます。(少年が銃で誰かを射殺するシーンがあったと思うが記憶が曖昧)父親が迎えに来ます。無言のまま父親とともにバスに乗りどこかに向かいます。父親の腕には数字の焼印があります。少年は息で曇った窓に「Joska」と自分の名前を書きます。

俳優の存在感が必要な映画だったのでは?

ラストシーンの父親の焼印の「数字」と少年が書く「文字」の対照、きっと何かを暗示しているんでしょう。

それにこの少年はほとんど言葉を発しません。途中からは言葉を失ったということでもあるようですが、とにかく思い返してみても喋っているシーンが思い出せません。その上この少年、感情表現というものがまったくと言っていいほどありません。

演じているのはペトル・コトラールくん、俳優ではなく一般人で、経緯はわかりませんがこの映画のために抜擢されたようです。

で、それがよかったかどうか、私は結果として映画の曖昧さに結びついているような気がします。言い方を変えれば映画に一本の筋が通っていないということです。

最初に、この映画は起きていることが何を意味するのかを考える映画だと書きましたが、決して起きていることが抽象的で想像力を要するということではなく、起きていることは極めて具象的です。起きていることをひとことで言えば「暴力」です。

その暴力シーンを断片的に見せられるという映画です。ですので、何を意味しているか考えるというのは全体としてその暴力が何を意味しているかを考えるということであって、映画を見ている間に想像力を求められるということではありません。

つまり、想像力を求められないのに断片的にいつまで続くかわからない暴力シーンを見せられることがつらいということになります。

この映画に必要だったのは、最後まで引っ張っていく俳優の力ではなかったかと思います。もちろんそれは職業という意味での俳優であってもなくもという意味であり、その人物の存在感という力です。

なんとなく思い出した映画でこんなものもありました。

チャンブラにて(字幕版)

チャンブラにて(字幕版)

  • 発売日: 2020/02/01
  • メディア: Prime Video