命みじかし、恋せよ乙女

樹木希林さんの遺作であり、HANAMI の続編

樹木希林さんを前面に出しての宣伝の効果でしょう、(私の)予想以上に入っていました。まさか日本ではあまり知られていないドーリス・デリエ監督の名前でということはないでしょう。

命みじかし、恋せよ乙女

命みじかし、恋せよ乙女 / 監督:ドーリス・デリエ

HANAMI」の完全なる続編でした。

と、「HANAMI」を持ち出しても、おそらく多くの人には何のことかよくわからないと思いますが、この映画の監督、ドーリス・デリエ監督は、日本に関係する映画を数本撮っており、(多分)日本での劇場公開作品はありませんが、映画祭では結構上映されている監督です。

その一本に2008年公開(ドイツ)の「HANAMI」という映画があり、この映画でもカールの見る幻影として登場している父親ルディが、子どもたちから疎遠にされ、旅行に出るもそこで妻を亡くし、それを機に実は妻が最も行きたがっていた日本、末っ子のカールが銀行員として働いている日本を訪れます。しかし忙しいカールからも鬱陶しがられ、街をさまよううちにゆう(入月絢)というホームレスの少女と出会い、徐々に癒されていき、そしてふたりで妻が見たがっていた富士山に向かうも、そのほとりで息を引き取るという物語です。あらすじはリンクのウィキペディアに詳しいです。

確か本人はやんわり否定していたと思いますが、小津安二郎監督の「東京物語」のリメイクのようなことも言われていたと思います。

「HANAMI」制作当時のデリエ監督が何を考えていたかはわかりませんが、これだけ連続性のある続編を作り、その続編から浮かび上がってくることを考えれば、確かに、前作でさえ、描こうとしていたのは「家族」ではなく、「性差」だったのかもしれません。つまり、ドイツ社会の、あるいはルディ一家の主であるルディ自身が抱える「男性的なるもの」への迷い、戸惑いから、ゆうが象徴する「女性的なるもの」として日本を見ていたのかもしれません。

この「命みじかし、恋せよ乙女」では、その点が強調され、父ルディは徹底した「ファルス中心主義」者として登場し、母トゥルーディは、相対する「女性性」の象徴としてカールの逃げ場所となっています。

前作からおよそ10年後、東京で働いていたカール(ゴロ・オイラー)がドイツへ戻り、結婚し、すでに子どももいるところから始まります。

カールの中では意識下に抑え込まれていた内的分裂が吹き出し抑えきれなくなっています。結果、アルコールに逃げることとなり、依存症ゆえに子どもにも接近禁止命令が出ているようです。

映画は始まりからおよそ7割方、そのカールの分裂状態を見せ続けます。ですので、映画としては大した進展があるわけではなく面白くはありません。それに映画は論文ではありませんので、言葉で整理できるほど辻褄が合っているわけではありません。しかし多くの場面で、ファルスを象徴するものが登場します。 

原題である「Kirschblüten & Dämonen(Cherry Blossoms and Demons)」、直訳すれば「桜と悪魔」です。日本語のニュアンスとしては奇妙な並列ですが、「Kirschblüten(Cherry Blossoms)」が前作の原題ですのでさほど深い意味はないにしても、実際に頻繁に登場する黒い影=悪魔(悪霊)はカールを抑圧的に苛む父親の記憶そのものでしょう。

カールとゆうが歩いているときに突然登場して襲ってくる毛むくじゃらの怪物、ああしたお祭りがあるのかと調べてみますと、近いのは「クランプス」というものかと思いますがあれもそうでしょう。ゆうを襲い、助け出そうとするカールを傷つけていました。

ワンシーンですが、幻影として登場するナチスの将校、それになんとそこには大日本帝国軍人も登場していたことには若干違和感がありますが、あれもそうですね。

このナチスの将校には具体的関連があります。この映画には前作に出ていたカールの兄妹も登場します。前作にそういう描写があったのかどうかは記憶にありませんが、兄はネオナチの党員になっています。そんな父親に反抗してか、息子は引きこもり、額に鍵十字のタトゥーをし、父親が脱退するまで消さないと言っています。

この行為を、字幕では引きこもりと訳していましたが、多分ニュアンスは違うでしょう。父への抵抗のためにコミュニケーションを拒絶しているということだと思います。

この甥へのカールの思い入れの強さも、カール自身の内的葛藤のひとつでしょう。

そして、決定的な「男根」の喪失があります。

ああ、その前にゆうを登場させておかないと話が前に進みませんね。 

アルコールに溺れ、娘にも会えないことで失意のどん底にいるとき、前作では父親ルディを癒やしたゆうが現れます。このゆう、前作と同じく入月絢さんが演じています。前作では舞踏系のダンスを見せてくれていましたが、今回はダンスシーンはありませんでした。

カールは、ゆうに誘われるように今は空き家となっている自分が育った家に向かい、自分の過去と向き合うことになります。ここで上に書いた黒い影に苛まれたり、毛むくじゃらの怪物に襲われたりということがあるということです。

もう少し何か進展でもあればよかったと思いますが、カールが心的障害に苦しむ場面の一本調子ですのでさすがに飽きてきます。

とにかく、ゆうはそんなカールの苦しみを解き放とうと優しく癒したり、時に能面で脅し(ショック療法?)たりし、ある時、カールの爪弾くウクレレ(?)の曲に合わせ踊り(というほどではないが)始め、着ているものを脱ぎ下着になってカールによりかかります。しかし、カールは、心的なものなのか、アルコールのせいなのか、性交渉が出来ません。

そして決定的なことが起きます。子どもとの面会日にまたもアルコール検査で面会が叶わず、さらに飲んだくれて、寒い夜に酔っ払って森の中で倒れ込んで気を失ってしまいます。翌日(かな?)救出されますが、凍死で死亡宣告されます。

兄妹も集まり、救命装置を外すかどうかの選択を迫られ、外すことにしたその時、なぜか突然(足をくすぐられ?)息を吹き返し(このあたりよくわからん(笑))ます。

しかし、カールは、男性器が凍傷にあい切断されてしまいます。

やや展開が陳腐と言えなくもありませんが、ある種のファルスからの開放なんでしょう。

ゆうは姿を消しています。カールは女性ものの着物を着てジャケットをはおり日本に向かいます。

カールはゆうの故郷である茅ヶ崎に向かい、茅ヶ崎館に迷い込みます。茅ヶ崎館の主が樹木希林さんです。「エリカ38」が遺作かと思っていましたら、この映画のようです。印象としてはこちらのほうがまだ元気に見えました。

この日本パートもあまりいただけません。樹木希林さんの台詞をもっときっちりと作るべきです。日本語で思考できる人のサポートを受けるべきだったと思います。

とにかく、カールは、樹木希林さんがゆうの祖母であり、すでにゆうは自殺して亡くなっていることを知らされます。カールがドイツで出会ったゆうも幽霊だったということです。

絶望し(かな?)浜辺で呆然とするカールは海の中にゆうを見ます。ゆうが誘っています。カールはゆうに歩み寄り海に入っていきます。抱擁するふたり、ゆうがカールを水中に押し込みます。抵抗するカール、必死に海から上がるカール、そしてゆうに言います。

 「もう少し生きてみる」

と字幕がついていたのですが、カールもゆうも「i miss you」って言っていませんでしたかね。正確に聞き取れませんでしたが、miss you といっていたような…。

とにかく、という映画です。

おそらくデリエ監督は、ドイツにある「男性性」的なものへのアンチとして日本に「女性性」的なものを感じているんだろうと思います。「ゆう」の存在や、この映画にはありませんが舞踏の身体表現もそうですし、男性器を失ったカールに女性ものの着物を着せたりしているのもそこから来ているんだろうと思います。

もちろんそれは、何であるかはわかりませんが何らかのフィルターを通して憧憬的に日本を見ているだけですので何の解決にもならなく、それでも前作では、最後に人の死を置いていますのでなんとか映画としてもまとまりを持っていましたが、この続編では、その対立構造を明確に出しすぎてしまったがために、日本にはそんなものはないよということがあからさまになってしまった映画だと思います。

この映画、一本の映画としてのできもあまり良くありませんので、「HANAMI」を見ていませんと意味不明な所も多いのではないかと思います。なんカットか「HANAMI」の画が挿入されたり、ピンク電話や着物の扱いなど、いろいろ繋がりが意識されていました。

ところで、タイトルバックに使っている日本の妖怪ですが、もしあの毛むくじゃらの怪物と同列にみているとしますとそれはちょっと違いますよと言いたいですね。

それに、これは監督とは関係ないのでしょうが、いくら売るためとはいえ、この邦題はないんじゃないのと思います。

ドリース・デリエ監督、日本絡みじゃない映画を見た印象では、かなり硬派な映画を撮る監督ですよ。

一切なりゆき 樹木希林のことば (文春新書)

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