「ハウス・イン・ザ・フィールズ」モロッコ、アトラス山間部に暮らすアマジグ族の姉妹と結婚式

「モロッコの山奥に暮らすアマズィーグ族の姉妹、ハディージャとファーティマ。アトラス山脈の壮大な自然の中、自身の夢と伝統や慣習のあいだで揺れ動く心のうちを親密な映像で紡いでいく。(公式サイト)」

という映画なんですが、なんだか膜が張ったような掴みどころのない映画でした。

 

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ハウス・イン・ザ・フィールズ / 監督:タラ・ハディド

 

 

ドラマとドキュメンタリーの違いとは 

どういう映画かは、下のリンクのタラ・ハディド監督のインタビューを読むのが一番かと思いますが、簡単に言いますと、7年間かけて撮ったモロッコの山間部に暮らすアマズィーグ(アマジグ)族の生活を2人の姉妹を軸に再構成(編集)したドキュメンタリーで、クライマックスが姉の結婚式になっています。

 

 

こういう映画の場合、撮影者が被写体の生活空間に溶け込んで、そこでの生活者視点で撮った映画というものをイメージしてしまいますが、この映画はそれを目指しているわけではなさそうです。

 

結局、映画って、それがドラマであれドキュメンタリーであれ、撮影者(制作者)側がどこに立っているかということで映画の持つ意味合いが大きく変わってきます。映画とはちょっと違いますが、ニュース映像などはあくまでも外部の第三者視点でそこで起きていることそのものを撮ろうとすることが多いですし、ドキュメンタリーのひとつの形として、たとえば意見の対立する問題があるとしてその一方の側、それは多くの場合少数者、あるいは弱者の側ですが、その考えを代弁すれば告発的な映画になりますし、また、それが世に知られていない事柄や価値観であれば情報発信や啓発的な意味合いの映画になります。

 

で、この映画はなにかですが、プレスリリースにタラ・ハディド監督自身が引用しているジル・ドゥルーズの言葉を知れば、ああなるほどと納得がいきます。

 

映像作家は自分の民族の民俗学を調査すべきではないし、また私的な物語にすぎないフィクションを自ら編み出すべきでもない。作家に残されているのは、自分を「仲介者」にできる可能性、つまり現実の虚構ではない人物をとらえ、彼ら自身を、「虚構化させ」、「伝説を語らせ」、「物語を話す」状態に導く可能性である。
OUTSIDE IN TOKYO

 

プレスリリースがネット上にありました。

 

つまり、この映画は、モロッコのアトラス山間部に暮らすアマジグ族の(現実の)姉妹ハディージャとファーティマがカメラ(タラ・ハディド監督)と出会い、自らを変化させて(演じて)いき(フィクションの)物語を生み出していったものということです。

 

監督はインタビューで、最初、自分はゲストであったが、

7年という歳月をかけることで、彼らにとって私がカメラを回すことが居心地が良いと思えるような関係性を築くことが出来た

と語っており、そうした

長い時間を掛けたことで、私、そしてカメラという存在があるということ、そしてその歳月の中から生まれた現実と非現実、虚構、フィクションといったものの関係が生起し、それが発展して(略)彼らが自分の話を語り始めるということが起きたのです。仕事をしたり、自分達の生活を営む中から、ある種のフィクション的なもの、演じることが、有機的なものとして立ち上がってきました

ということです。

 

それを監督は「ある種のメタフィクション、現実を超越したこと」と表現しています。

 

この映画はドキュメンタリーがドラマとあまり変わらないものであることを示しています。

 

ハディージャとファーティマのメタフィクションとは

映画は、冬、春、夏と3つの季節として描かれます。また、冒頭、吟遊詩人(的)の歌から入ります。

 

ただ、そのどちらも、つまり3つの季節は閉ざされているものが外に向かって開かれていくイメージだと思われ、また歌はそうした物語を語りますよという意思表示だとは思いますが、そのどちらもあまり効果的な印象ではありません。

 

その理由は、最も重要な画(映像)が、確かに美しくはあるのですが、物語を語るところまでいっていないのです。これもインタビューからの引用になりますが、

その美しさは、本当にカメラの目の前に既にあるものです、目の前にあるものをそのまま録画したということです。

私は山に住んでいる人々を美しいと思いますし、私にとっては彼らの風習も非常に美しいと思えるものでした。

と語っている、その通りの画です。

 

で、監督が何をメタフィクションといっているかですが、ハディージャ(カディジャ)の変化でしょう。

 

姉のファーティマ(ファティマ)の方はすでに結婚が決まっています。イスラムですから本人の気持ちとは関係なく父親の決定です。

 

妹のハディージャ(カディジャ)の方は弁護士になる夢を持ってい(ると映画は語ってい)ます。映画の中で本人がそう言っていますし、男女平等という言葉も使っています。あるいはこのことも、7年という期間を考えればこの映画との出会いがハディージャの考えに影響しているのかもしれません。

 

また、実際、ハディージャは映画というものにも興味を持ったらしく、見ていて、ん? このシーン、なにか違うなあと思った姉妹が寝室で目覚めるシーンは、姉妹、特にハディージャが自ら映画を撮ることに参加したシーンとのことです。

 

タラ・ハディド監督がいうメタフィクションとはおそらくこのことを指しているのでしょう。

 

膜が張ったようで掴みどころがない

で、この映画が監督がいう「ある種のメタフィクション、現実を超越した」映画であるとして、面白いか、あるいは何かが伝わってくるかと言えば、かなり疑問を持たざるを得ません。

 

典型的なのは映画のクライマックスとなっている結婚式です。一言で言いますと「Nスペ」です。Nスペが面白くないという意味ではありませんが、そこにあるのは監督自身の当事者ではない驚きと感嘆だけです。

 

残念ながら、メタフィクションの主役である、ファーティマが何を思い、ハディージャが何を感じているか全く伝わってきません。

 

彼ら(彼女ら)自身を、

「虚構化させ」、「伝説を語らせ」、「物語を話す」状態に導

いている映像ではありません。

 

結局、7年という歳月を感じさせる生活感、土着性、ベタさがないということかと思います。映画には一定程度はファインダーからではない目が必要なのではないかと思います。

 

シネマ2*時間イメージ (叢書・ウニベルシタス)

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