幸せの答え合わせ

ウィリアム・ニコルソン監督自身の両親追憶映画

すごい映画ですし、面白いです。

老年夫婦の離婚話ですが、その離婚話自体が類似の映画とは随分かけ離れていますし、台詞だけではなく頻繁に語られる詩などの言葉にいろいろ意味が込められているようです。とにかくいろんな見方ができる映画で、ウィリアム・ニコルソン監督(脚本も)は一体どこへ持っていこうとしているのか考えさせられてしまいます。

幸せの答え合わせ

幸せの答え合わせ / 監督:ウィリアム・ニコルソン

結婚は戦争みたいなもの? 

基本、台詞劇のつくりですのであるいはと思い調べてみましたら、「The Retreat from Moscow(モスクワからの退却)」というウィリアム・ニコルソン監督自身が脚本を書いている舞台劇をベースにしている映画とのことです。

初演は1999年にイギリス南部のチチェスターで行われており、2003年にはブロードウェイでも上演され、トニー賞にノミネートもされています。

ウィキペディアの日本語ページにも記載がありました。

このウィキペディアによれば映画の評価(ロッテントマト)はあまりよくないようです。結構深い話で面白かったんですけどね(笑)。

ネイティブスピーカーには伝わってくるものが違うということもあるのでしょう。アネット・ベニングさんがイギリス訛りの英語に苦労しているという評価もありましたし、ロッテントマトの評価がアメリカのものだけではないにしてもアメリカじゃこういう映画はうけないでしょう。

その舞台劇「The Retreat from Moscow」も映画とほぼ同じ設定らしく、登場人物は33年(映画は29年)連れ添った夫婦と息子3人の話です。タイトルはその言葉だけでも意味を成すナポレオンのモスクワ侵攻からの撤退、つまりナポレオンの敗北を指している言葉で、舞台劇のエドワードはナポレオンのロシア侵攻についての本を読むことにはまっている設定になっており、映画ではエドワードが夫婦生活から撤退する決心をするのは他に好きな女性ができたからですが、舞台ではナポレオンのロシアからの撤退に自分を重ね合わせた描き方がされているのかも知れません(私の想像です)。

結婚は戦争みたいなもので撤退こそが難しいということなんでしょうか。

映画では、エドワードは教師という設定であり、授業のシーンで戦争からの撤退について語っていたのはナポレオンの戦争だったということですし、また、エドワードの机の上だったかに兵士たち(ナポレオンもあったかも?)のフィギュアが置かれており、グレースが弁護士事務所だったか、ラストの相手の女性の家だったか(多分こっち)のシーンでそのフィギュアを無造作にエドワードに渡すシーンがありました。見落としていますが、エドワードがウィキペディアの編集をしていたのは「Napoleonic Wars」という設定だったのかも知れません。

使われている詩は?

グレースは詩集の編纂しています。グレース自身が何度も口にしていた「I Have Been Here Before」についてのアンソロジーです。

この言葉もダンテ・ゲイブリエル・ロセッティという人の「Sudden Light」という詩の冒頭の一節とのことです。

オフィシャルトレーラーにも出てきます。

それにしても、こういう言葉が重要な映画を見るのは、英語を聞き取ろうとしつつ、字幕を読みつつ、画を見逃さないようにしようとするのは本当に疲れます。ですので、他の詩が誰の詩だったのかわからなかったのですが、幸いにして、IMDbにその情報がありました。

ウィリアム・バトラー・イェイツの「An Irish Airman foresees his Death」、ローレンス・ビニョンの「For the Fallen」、アーサー・ヒュー・クラフの「Say not the Struggle nought Availeth」だそうです。

どの詩も争いがテーマになっているようでもあり、どこか死の香りがします。

ラストシーンでジェイミーが朗読(ナレーション)している詩はウィリアム・ニコルソン監督のものです。

Forgive me for needing you to be strong forever.
Forgive me for fearing your unhappiness.
As you suffer so I shall suffer.
As you endure I shall endure.
Hold my hands and walk the old walk one last time,
then let me go.

この映画、本当にウィリアム・ニコルソン監督の気持ちがどこあるのかわかりにくいのですが、少なくとも両親を追憶し、両親に感謝し、過去への悔恨を吐露する気持ちがごちゃまぜになった両親への思いが主題の映画なんだろうと思います。

実際にウィリアム・ニコルソン監督が30歳のときに両親は離婚しており、映画で使っている詩も母親のアンソロジーからのものとのことです。

ウィリアム・ニコルソン監督(映画ではジェイミー)が、両親の離婚は両親にとってとてつもなく不幸なことだとその間に入って元に戻そうと考えたけれどもできなかった、ごめんなさい、そしてそのことそのものが間違っていたかも知れないと追想する映画です。

ただ、映画の結果としては、それが監督が意図するものであったかどうかわかりませんが、母親のグレースが異様に強い人物になっており、そこばかりに(特に日本では)焦点が当たりそうな映画になっています。

まあいずれにしても、結婚を戦争にたとえるならば、仮に互いの争いになったとしてもそのどちらも勝者になることはなく、結果として敗走することになるならば、エドワードが生徒に語っていたように、歩くことができる者は荷車の負傷者を振り落としながら戻ることしかできないということです。

ネタバレあらすじとちょいツッコミ

映画の舞台はイギリス南部の町シーフォードです。

Hope Gap の白亜の壁

映画冒頭は、美しい丘からの風景やその下の岩場が好きだったというジェイミー(ジョシュ・オコナー)のナレーションから始まり、グレース(アネット・ベニング)の現在がかぶってきます。

何度も登場するあの丘はセブン・シスターズ(Seven Sisters Country Park)という国立(かな?)公園の中にある白亜の壁の上なんですね。

映画のタイトルにもなっている Hope Gap というのは日本の公式サイトには入江とありますが、このあたり全体を指しているのかも知れません。なぜこう呼ばれているのかはわかりませんが、映画的にはあまりにもピッタリの地名です。

海側から見ると本当に白亜の壁です。石灰岩の岩で毎年数十センチ(未確認)ずつ後退しているそうです。崩れ落ちるということでしょう。

上からはとても下を覗き見ることはできなさそうです。後半にグレースがひとり絶壁の際に立ち、ジェイミーが後ろから恐る恐る声をかけるという自殺を思わせるシーンがありましたが、確かに自殺は多いようです。

その白亜の壁の丘からシーフォードの町を見下ろすカットが幾度か使われていましたがストリートビューでも見られます。

この映画の構成上のパターンは、元が舞台劇ということもあるのでしょう、室内の台詞劇のシークエンスがいくつかあり、その間にこの丘の現在のシーンやジェイミーの子どもの頃の回想シーンが抒情的に挿入されます。

両親の敗北

両親が結婚という戦いに敗北するシークエンス。

グレースがパソコンに向かい詩を読んでいます。詩の編纂をライフワークにしようとしているようです(Sudden Light の詩がナレーションされていたのだと思う)。

エドワード(ビル・ナイ)が帰宅します。教師です。後に学校での授業シーンがあり、日本で言えば高校といった感じです。エドワードが自分のお茶を入れていますと、グレースが私のは? と求めます。エドワードがグレースのテーブルのカップを取りますと半分残っており、なぜ残すの? と尋ねますと、グレースは終わるのが嫌だから(終わりを見るのが嫌だからだったか?)と答えます。

グレースはもっともっともっとエドワードと話をしたいといったオーラを強烈に放っています。エドワードは心ここにあらずの体で、自分の机に向かいウィキペディアの編集を始めます。二人の机はかなり離れており、そして互いに背中を向けるように配置されています。 

グレースは互いに自分の考えや思いをぶつけ合い、たとえそれが喧嘩になろうとも、それは愛し合っているからこそであり、そうしないエドワードが歯がゆくて仕方がありません。それに対してエドワードは、そんなグレースに合わせようと29年間努力してきたがそれをグレースは理解しないと思っています。

この状態が毎日のように続いているということでしょう。そうした硬直した場の空気に反して、このシーンのカメラワークは流れるようにとても美しいです。

エドワードが息子のジェイミー(ジョシュ・オコナー)に週末に帰ってきて欲しいと電話をします。

週末、ジェイミーが帰ってきます。多分、グレースの抱擁の強さを強調して描いていると思います(日本人的感覚からかも知れませんが)。

ディナーでもグレースとエドワードの会話は相変わらずです。ジェイミーは顔をしかめています。

翌朝、グレースが教会へ行っている間に、エドワードはジェイミーにこの家を出る、愛する人ができた、しばらく一緒にいてやってほしいと言います。困惑するジェイミーですが、父親の願いを受け入れ、しばらく席を外すため例の丘へ行きます。

グレースが戻り、エドワードは出ていくと告げます。グレースは言葉の意味が理解できません。エドワードがもう無理だと言いますと、グレースはあなたは29年間しなくてはいけない努力をしなかったと主張します。

エドワードは、29年間努力し続けてきたと答え、そのままカバンひとつを持ち出ていきます。外には女性アンジェラが車で待っています。

荷車から振り落とされたグレース

歩くことのできるエドワードと負傷し荷車のグレースのシークエンス。

ここまで映画は1/3くらいで、残りの2/3はジェイミーがグレースとエドワードの間のメッセンジャーのように振る舞うシーンです。ジェイミーが、実際には何もできないんですが、ふたりを元に戻そうと思い悩み、結果としてひとりになったグレースに寄り添うことになります。

グレースの絶望的に落ち込んでいる姿が続きます。ジェイミーが週末ごとに戻りますができることはありません。

ジェイミーはロンドン(かな?)でIT関連の仕事をしています。同僚に人づきあいがうまくいかないと漏らし慰められています。さらに母親のことで大変だと漏らしますと親離れしていないと言われたりします。

こうしたジェイミーと同僚とのシーンが2、3シーンあり、ジェイミーも自分自身のことで悩んでいるとの描写にはなっており、同様に、グレースとのシーンでもなにかうまくいかないの?と聞かれ、大丈夫だよと答えているのですが、全体を通してジェイミーの人物描写がうまくいっていないように思います。自分のこと(監督の)だから曖昧になってしまうのでしょうか。

ジェイミー、メッセンジャーとなる

ジェイミーはエドワードと会い、グレースがもう一度チャンスが欲しいと言っていると伝えます。エドワードは、29年間グレースに合わせようと努力してきたが無理だったともう終わったことのようです。グレースから無言電話がかかってくるので番号を変えたと言っています。

グレースは気分転換に犬を飼うことにし、エドワードと呼んでいます。ジェイミーに、よく言うことを聞くのよ、はい、お座りと見せようとします。ジェイミーは顔をしかめています。また、離婚の書類が送られてきているらしく、直接会ってじゃなければサインしないと言っています。

エドワードがジェイミーのアパートメントを訪ねます(間違っているかも)。グレースとの出会いを語ります。

その時自分は父親を亡くしたばかりだった。駅のホームに父親がいると思い、声を掛けたもののそれは人違いだった。列車に乗り、そのことを思い涙を流しているとひとりの女性が大丈夫?と声を掛けてくれた、それがグレースだった、と。

会ってはいけなかったとも言います。

弁護士事務所のシーン。グレースは犬を連れてきます。入室を断られても強引に連れて部屋に入ります。エドワードもやってきます。

犬をあやすエドワード。グレースが犬に、おいで、エドワードと呼びかけます。エドワードは驚きます。万事その調子ですので離婚の手続きなどうまくいくはずがありません。裁判になれば財産分与は不利になるという弁護士に、お金などいらないと言い捨てて出ていってしまいます。

グレースは救われるか?

ある時、ジェイミーが戻りますとグレースがいません。

丘の上(雪のシーンだったか?)のグレースにジェイミーが呼びかけます。

もし、もう人生を終わらせたいと思うくらい辛いのであれば、僕には止められない、でもその前にさようならだけは言わせてほしい、と。

ある日、グレースはエドワードが暮らす家を訪ね、そっとリビングに入っていきます。驚くエドワード、奥からアンジェラが出てきます。私が話すというエドワードに、アンジェラは大丈夫、私に話させてと言い、

「三人の不幸な人がいたけれど、今はひとりだけになったのよ」

と言います。無言で入っていくグレースもグレースですが、この台詞をアンジェラに言わせますか?!

グレースは自殺予防ホットラインのボランティアを始めます。電話を受けて、私はあの石灰岩に幾度も身体をこすりつけたくはないわ(みたいな感じ)などと答えています。

また、再び詩集の編纂を始めています。ジェイミーがそのアンソロジーのウェブサイトを立ち上げます。悩みごとで検索すればその心の痛みを癒す詩がヒットします。

ジェイミーのナレーションが入り終わります。

僕はあなたを救えると思っていたけれど何もできなかった。僕が最初に出会った女性である母、暖かく包み込んでくれたあなたは僕の誇りです。僕が最初に出会った男性である父、あなたは僕の先生であり、これからもずっとそうであるにように、常に僕の前を歩く人です。(こんな感じ)

Forgive me for needing you to be strong forever.
Forgive me for fearing your unhappiness.
As you suffer so I shall suffer.
As you endure I shall endure.
Hold my hands and walk the old walk one last time,
then let me go.

結婚という戦いに勝者はいない

グレースにとても厳しい映画ですし、まあそれもある意味当然だとは思います。それだけに見捨てられないジェイミーということで、この映画はジェイミー視点の映画だということです。

この映画の夫婦の関係は離婚のある一瞬を捉えているだけですので、実際問題、二人は29年間、愛し合いもし、時に憎み合うことがあったにしても、エドワードにしてみればグレースが何でも決めてくれて楽だったかも知れません。

実際、アンジェラという女性が登場しなければ、決してエドワードは出ていく決心などしなかったでしょうし、あるいはいい人生だったと死んでいったかも知れません。

また、この映画を男女逆に、エドワードがグレースのような行為をとっていたと考えれば、刷り込まれた固定観念が邪魔をして見えていなかったものが見えてくるかも知れません。

いずれにしてもあくまでも夫婦の最後の一瞬を捉えた映画であって夫婦の過去は主題ではなく、また、ジェイミーにはこの映画のように両親が見えていたという映画でしょう。