返校 言葉が消えた日

白色テロ下の純愛が悲劇を生む

ゲームが原作の映画ということで見るのを迷ったのですが、見てみればあまり違和感はなく、前半はともかく、後半は映画らしくまとまっていました。ゲームと言えば敵と戦ってパワーアップしていくイメージしか持っていなかったのですが、こうした物語でもゲームになるようです。

で、この映画を見てみようと思った理由は、台湾の「白色テロ」の時代を描いているということからです。

返校 言葉が消えた日

返校 言葉が消えた日 / 監督:ジョン・スー

日本人には台湾映画はノスタルジー?

映画は現実パートと幻想ホラーパートが交錯しながら進みます。思い返してみればホラーパートがゲームっぽいと言えばそう言えるかもしれません。

時代は1962年の台湾、「白色テロ」の時代です。台湾は、1945年の日本の敗戦により蒋介石の国民党の施政下に入りますが、1947年2月に二・二八事件が起きて戒厳令が敷かれます。それ以降、国民党政権は反政府派や民衆への徹底的な弾圧を行い、戒厳令が解除される1987年までに「140,000名程度が投獄され、そのうち3,000名から4,000名が処刑された(ウィキペディア)」と言われています。

これが40年にもおよぶ「白色テロ」、自由を奪われた恐怖時代ということです。現在のミャンマーが同じような状態にあると思われます。

そうした時代背景の中の高等学校が舞台です。そこでは教師や生徒たちが密かに発禁本の読書会を開いており、それを誰かが密告したためにひとりを除いて皆逮捕され殺されてしまうという物語です。

という、割とはっきりした物語であるにもかかわらず、映画自体は何が映画の肝なのか、あるいは何が映画の軸なのかあまりはっきりしていません。たとえて言えば、密告者が誰かはかなり早い段階でわかりますのでミステリーということでもありませんし、幻想ホラーがすごいかと言いますと、どちらかと言いますと意表をついて脅かしたり大きな音でびっくりさせる手法ですので新鮮さはありません。ただ、それでも後半がなんとなく映画になっていると感じられるのは、現実パートの恋愛感情を含めた人間関係にノスタルジーを感じさせるものがあるからではないかと思います。

正直なところ映画の序盤は、ああ、やっぱり見る映画を間違えた…と思いました。冒頭の10分くらいの現実パートから幻想ホラーパートへ移る構成が効果的ではなく、なぜ女生徒のファン・レイシンが廃墟の教室にひとりぽつんと机にうつぶして眠っているのかがわからないままにいきなり亡霊が出てきて驚かされても興味はわかないということです。

ただ、それを乗り越えて中盤になり、現実パートの教師と生徒の恋愛感情やその行き違いによる悲劇が描かれ始めますと、なんて言うんでしょう、ノスタルジーでしょうか、そんな感情が刺激され始め、つまらなかったホラーパートもやや違ったものに見え始めます。

物語の根底には教師や生徒が殺されてしまうという相当シリアスな物語があるわけですが、そうした残虐行為自体が描かれるわけではなく、その結果が幻想ホラーパートとして亡霊などとして描かれるわけですので、それが現実感のない過ぎ去った過去感となっているのかもしれません。

台湾の人たちがこの映画をどのように見ているのかはわかりませんが、日本人的感覚で言えば、「自由が罪になる世界で僕らは生きていた」というテーマそのものにもノスタルジー感が感じられます。

さらに言えば、そこまで切羽詰まった感じを受けることのない今現在の現実世界ということなのかもしれません。

ネタバレあらすじとちょいツッコミ

一般論としてですが、映画は時間軸がはっきりしていないと結果としてぼんやりしたものになってしまいます。この映画がまさしくそうで、ラストシーンの老年となったウェイ・ジョンティンの回想というわけでもなく、読書会のメンバーがウェイを除いて殺害された時点から遡る話というわけでもなく、映画の冒頭のウェイやファン・レーシンの通学シーンからの時系列順というわけでもないということで、物語を順序立てて考えることが非常に難しい映画と言えます。

また、物語を語る主体が主観なのか客観なのか、主観であれば誰なのか、また変化するのであればそれをどう見せるかも重要なことです。この映画はそれがあまりうまくいっていません。多くのシーンでウェイの視点なのかファンの視点なのか、あるいは客観なのかがはっきりしません。それらが曖昧なまま最後まで進むことも、余計に映画の軸がなんなのかわかりにくくしています。

勝手に物語を再構築してみた

ということで、ゲーム「辺校」がどういうゲームなのかも読んでみた上で、勝手に物語を再構築してみました。結局、映画が語りたかったのはこういうことではないかと思います。

これは映画のあらすじではなく私の創作が入っています。ただウェイの回想部分を幻想ホラーパートにすれば概ね映画と一致するのではないかと思います。

まず、シーンはありませんが、老年となったウェイが数十年前のおぞましい過去を、それがあたかも白日夢であったかのように語り始めます。映画のラストシーンの前段です。

時代は戒厳令下、ウェイが通う翠華高校も常に軍人(官憲?)の監視がつき、自由にものが言える環境ではありません。それでも自由を求めるウェイたちはチャン先生とイン先生の指導のもと数人の仲間で発禁本を読む秘密の読書会を開いています。

また、ウェイは先輩のファンに対して憧れの気持ちを持っています。

そんなある日、ウェイは階段ですれ違いざまにファンとぶつかり、その拍子に持っていた発禁本を落としファンに見られてしまいます。ウェイはファンに恐る恐る誰かに言う?と尋ねます。ファンは首を横に振って去っていきます。

そして数日後、突然学校に官憲が現れ、チャン先生もイン先生も、そしてウェイも逮捕されてしまいます。ウェイは、読書会をやっていただろう! 発禁本をどこに隠した! 仲間の名前を言え!と激しい拷問にあいますが最後まで知らない!と黙秘し続け、やがて釈放されます。

しかし、チャン先生もイン先生も仲間たちもすでに拷問によって殺されてしまっています。

ウェイは逮捕されてからずっと気になっていたことをはっきりさせようとファンを訪ねます。しかし、ファンは自殺してすでに亡くなっています。母親がファンの日記を見せてくれます。そこにはファンの悔恨の思いが書き綴られています。

ウェイはその日記を読むことで、日々厳しい監視の中で続けてきた読書会の出来事やチャン先生やイン先生、そして仲間たちとの充実した時間をファンの目を通して思い返すのです。

ファンの両親はいつからか喧嘩が絶えなくなっています。理由は父親の浮気ですが、それがもとで母親は宗教に傾倒するようになり、さらに関係が悪化していきます。

ファンはそうしたことから塞ぎ込むことが多くなり、それを気遣ってくれたチャン先生にいろいろ相談するようになります。ファンは次第にチャン先生に淡い恋心を抱いていきます。

ファンがチャン先生と語らう時、チャン先生はいつも水仙の絵を描いています。今日もその絵なのねと寄り添うファン、チャン先生はおもむろに取り出した白鹿のペンダントをファンに掛け、いつまでも大切にしてほしいと言います。

ある日、ファンはチャン先生とイン先生が言い争っているところに遭遇し、その時自分の名前が出たことからチャン先生とイン先生の関係を疑い、チャン先生が自分を裏切っていると思い込んでしまいます。

しかし実際は、イン先生は読書会のことが漏れることを心配し、チャン先生にファンとの個人的関係をやめるように話していたのです。

チャン先生に裏切られていると思い込んだファンは、なにも言わず白鹿のペンダントをチャン先生に突き返してしまいます。

そしてある時、ファンの父親が汚職で逮捕されます。理由は母親が父親の浮気の腹いせにあらぬことをでっち上げ密告したのです。

学校を監視している軍人(官憲?)がファンに近づいていきます。常々校内に不穏なものを感じていた軍人は、ファンの父親を助ける代わりに校内の情報を引き出そうとします。

チャン先生に裏切られたと思い込んでいるファンは、ウェイにいつか見た発禁本を貸してほしいと言い、それを軍人に渡してしまいます。

ファンは、自らのその行為によって起きたことに恐れおののきます。苦悶の日々を過ごすファン、そしてファンは事実を知らないまま、チャン先生への恨みと自分のしたことへの悔恨の情に押しつぶされるように自ら命を断ってしまいます。

数十年後、翠華高校が取り壊されると知ったウェイは、それまで記憶の奥底に封印していた思いを蘇らせ、思い切って母校を訪ねます。そして、懐かしくはあっても思い出したくもないあの読書会の部屋を訪れ、当時読書会で使っていた発禁本の隠し場所を開け、未だそのままになっている本を見つめます。

ウェイはそのうちの一冊を手にします。それはチャン先生が使っていた本です。ぱらぱらとめくるその本から一枚の紙と白鹿のペンダントがひらりと舞い落ちます。

それはチャン先生がファンに宛てて書いたものの、逮捕されてしまい渡すことが叶わなかった手紙なのです。

「白鹿から水仙へ この世では君への思いは叶いそうもない 来世で会おう」

現実に廃墟となってしまった教室、ウェイはひとつ残された椅子に座り、遠い過去に思いを馳せ、悲しげな表情を浮かべるファンの幻にそっと白鹿のペンダントを掛けてあげるのです。

いっそのことホラーを捨てていれば…

本来ホラーである物語を勝手にメロドラマにしてしまいました(ペコリ)。

ただ、やはり映画としては現実パートとホラーパートがうまく噛み合っていません。中途半端に感じられます。純愛ものとホラーの組み合わせはとても面白くうまく噛み合えば、たとえば、ジャンルは違いますが「ぼくのエリ 200歳の少女」のような傑作になった可能性があったように思います。

ホラーを捨てればと書いてしまいましたが、捨てると言うよりもゲーム的なヴィジュアルではなくホラーを描く方法もあったのではないかということです。その点で言えば、ファンに自分の行為に対する後悔や苦悩を表現するシーンがないのがこの映画の一番の問題かもしれません。

「自由への希求」という点でもほとんどメッセージ性はなく、最初に書きましたように男性教師と女生徒とのピュアな純愛物語というオタク的な(ペコリ)妄想物語と紙一重の映画にもなっています。

ぼくのエリ 200歳の少女 (字幕版)

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