はるヲうるひと

山田孝之が頑張るも、「劇」のまま映画にならず

佐藤二朗さんという方を、ああ、あの映画のと、はっきり思い出せるものはありませんが、なんとなく知っている俳優さんではあります。

その佐藤さん、「ちからわざ」という演劇ユニットを主宰しているそうです。この映画もそこで2009年に初演された舞台劇がもとになっているとのことで、映画では「原作・脚本・監督:佐藤二朗」となっています。

はるヲうるひと

はるヲうるひと / 監督:佐藤二朗

ちょっとばかり時代錯誤ではないか… 

率直なところ、古さを感じます。遅れてやってきた小劇場演劇みたいな感じでしょうか。

ハッピーエンドで終えることをのぞけば、いわゆる「情念の劇」です。ただ、「劇」そのものの出来もあまりよくありません。

舞台は、日に2度本土から連絡船がやってくるだけの閉ざされた島の売春宿です。その島には置屋が至るところにあるという設定らしく、また、置屋という名の通り女たちはそこで暮らし「はるヲう」っているということです。

おそらく「売春島・渡鹿野島」(今では都市伝説か?)から着想されていると思われます。

ノンフィクションライターの高木瑞穂さんの『売春島~「最後の桃源郷」渡鹿野島ルポ~』という本がありますが、これは2017年の出版ですので、佐藤二朗さんがこの本から着想したというわけではないでしょう。

という設定ではあるのですが、映画はそうした島そのものを描いているわけではありません。「売春宿」という(現在においては)非現実的な設定に多少なりともリアリティを与えようとしたんでしょう。物語は完全に室内劇です。取ってつけたように原発誘致云々という話が出てきますが、言葉通り、取ってつけてあるだけです。

で肝心の「劇」はなにかですが、血縁を巡る兄弟姉妹間の情念の暴走かとは思います。ただ、まとめはその情念の主はどこへ行ってしまったかと疑問を残したまま、確かに伏線は張ってありますが、唐突に、つらいこともあるだろうが笑って済まそうとすり替わってしまっています。

ネタバレあらすじとちょいツッコミ

台詞が聞き取れない

島の船着き場、真柴得太(山田孝之)が磯のタコを突っついて何かブツブツ言っています。今下船した客でしょう、いくらか?と尋ねにきます。

この映画の最初の印象は、何言ってんだかわかんねぇ、台詞が聞き取れねぇ、というものです。この最初のやり取りもそうですし、その後、その客が高い、ほか当たろうと去っていった後の子どもたちとのやり取りにしても、そして、シーン変わって置屋の女たちの会話、とくに峯(坂井真紀)は方言(という意味だと思う)を使っており余計に聞き取れません。

まあ、台詞にさほど意味を持たせていないのだろうとあきらめて見ていましたが、入りの印象はよくないです。

哲雄の登場で期待はふくらむも 

置屋の場では、「一番古株の遊女」桜井峯(坂井真紀)、「ムードメーカーな女」柘植純子(今藤洋子)、「癒やしの女子」村松りり(笹野鈴々音)、「新人遊女」近藤さつみ(駒林怜)、そして、得太の妹真柴いぶき(仲里依紗)と、ひととおり女たちの紹介があります。

公式サイトから紹介コピーを引用しましたが、このコピーのニュアンスでおおよそ置屋の雰囲気は想像できると思います。多分シナリオから取られたコピーでしょうから映画のトーンにも通じているということです。

真柴哲雄(佐藤二朗)が登場します。いきなりさつきの顔を踏みつけてているカットから始まり、得太に今日は何人だ?と客の数を尋ね、(ゼロなので)答えられない得太に幾度も言葉を変えて尋ねて脅しをかけ、やっと答えた得太の手を取って火鉢の燃えた炭の中に突っ込むということになります。

かなりの緊迫感とどういうことだろう? という疑問で、このシーンはかなり期待を持たせます。

なぜ哲雄は得太につらく当たるのか

ということで、映画のポイントは、哲雄、得太、いぶきの関係に何があるのか? ということと、女たちの会話や「はるヲうる」行為の中から、どうやらこの映画は「愛のあるセックス」とそうではないセックスにこだわっているようだということがわかってきます。

哲雄たち兄弟姉妹の関係はあっけなく明かされます。新人のさつきがりりだったか、純子だったかに、なぜ哲雄は得太といぶきにつらく当たるのか?と尋ねます。

だからさつきを新人遊女にしてあるのねと、このあたりの中盤になりますと冒頭の緊迫感はどこへ行ってしまったのかとダレてくることもあり、物語の薄っぺらさが顕になってきます。

こういうことでした。

この置屋は哲雄の父親から続くもので、哲雄は本妻の子、得太といぶきは置屋の遊女である妾の子であり、なんと! 父親は妾と互いに喉を掻っ切って心中し、その現場を見た本妻も同じように喉を切って後を追ったということです。哲雄は置屋の跡を継ぎ、その屈辱的な屈折した怒りを得太たちや遊女たちにぶつけているということです。

ただし、これは嘘で最後に真相が明かされるオチになっています。

愛のあるセックス

哲雄は、父親が妾と心中したという屈辱(よくわからんけど)の裏返しとして、本妻との間に生まれた自分は「愛のあるセックス」から生まれたのであり、得太たちはそうではないセックスから生まれたとして蔑むことで自分を保っています。また、遊女たちを「はる(愛のないセックス)ヲうるひと」と見下しています。

映画は、それを覆すひとつの仕掛けとして、ユウという自称ミャンマー人の男を登場させ、足繁くりりのもとに通わせ、最後には二人を結婚させています。しきりにユウに愛(心だったかな?)があるのないのと言わせていました。

ユウとの心のあるセックスと対比させるために、原発誘致関係(だと思う)の会社員の男をりりの客として登場させ、その男を演じている向井理さんを無駄使いしていました(ペコリ)。

心中事件の真相は

物語の流れとしては、得太が哲雄に従順であることの説得力はありませんが、例によって、山田孝之さんの演技力でまあそういうこともあるかも知れないとは見ていられます。

妹のいぶきの方はもうひとつ人物設定がはっきりせず、どういう位置づけなんだろうとよくわからないまま進んでしましたが、やっと最後の展開に使われていました。

物語の構成上、哲雄に父親の模倣をさせるというつくりを考えているからだと思いますが、哲雄は父親が心中した部屋で峯とセックスすることで何らの精神的バランスを保っています。

あまり重要なことではないのですが、最後にはその峯が自分を妾にしてほしいと言ったとか哲雄が明かしていました。峯が最後のチャンスとかなんとか言っていたのは子どもを生みたかったということかと思いますが、奇妙な台詞でした。

とにかく、ある時、哲雄がいぶきを犯します。得太が発狂状態になり、火箸を握りしめ、哲雄に対峙します。そして心中事件の真相を「父ちゃんが誰にもいうなと言ったから」と泣き叫びながらとうとう口走ってしまいます。

その時、得太が母親の部屋に入ると自分の母親と哲雄の母親が手を取り合い、首から血を流して倒れており、傍らの父親が血の吹き出す自分の首を押さえながら、誰にも言うなと言いながら髪の毛を渡したということです。

得太はそれ以前から、母親と哲雄の母親が愛し合っているところを何度も見ていたと語り、つまり、母親同士の心中を発見した父親がふたりの関係が世間に知られることを恐れて自ら命を絶ち、自分と妾が心中し、本妻が後追いしたと言えと得太に言ったということです。

こういう「劇」ですから、あれこれツッコミどころではありません。

試しに笑え、無理でも笑え

得太といぶきが子どもの頃、どういうシーン設定だったか忘れましたが、母親が「試しに笑え、無理でも笑え」と言い、3人で笑いあうシーンがあります。

ラストシーンは、自称ミャンマー人の男とりりの結婚式で、皆(島の人々?)が浜辺に出て騒いでるところを得太といぶきが2階(披露宴会場かな?)から見下ろして、無理やり笑いあう場面で終えています。

映画的ではない「劇」

舞台であれば、わけはわかんないけれども俳優の勢いや場の空気に圧倒されるということもありますが、そのままでは映画は無理ということだと思います。

いろんなことが唐突だということです。

やはり映画は見るものが自身の中に物語をつくっていけるものでないと持ちませんし、ましてや、この「劇」の中の親子関係や兄弟間の情念は気持ちが悪すぎます。

哲雄の母親に、幼い哲雄の髪を切り自分の髪と結びあわせていつまでも一緒よ(こんなような台詞)と言わせてみたり、心中した母親同士が結び合わせた髪の毛を死ぬ間際の父親の形見のように得太に渡させたり、その髪の毛を今になるまで肌身離さず得田に持たせていたりする発想はちょっとどうかと思います。

哲雄の異常さを軸にして最初の緊迫感を持続させることができれば見られる映画になったのではないかと思います。