半世界

チャンチャンとオチをつけたら「半世界」にはならないと思うけど…

「半世界」ってタイトル、惹きつけられます。小石清さんという写真家の連作につけられたタイトルから取っているとのことです。

小石さんには『初夏神経』という写真集があるようですが、簡単に買ってみようという金額ではありませんでしたので図書館で借りることにしました。

半世界

半世界 / 監督:阪本順治

映画の内容は、その写真と直接結びつくものではないようで、小石さんの写真展を見た阪本順治監督がインスピレーションを得て書き上げたオリジナル脚本とのことです。

昨年2018年の東京国際映画祭での上映時のインタビューを読んでみましたら、阪本監督という方は(失礼な言い方になるかもしれませんが)わかりやすい方ですね。クランクインする前に主要な俳優と食事をして、まず自分の生い立ちなどを喋って距離感を縮めようとするそうです。 

2018.tiff-jp.net

そうした人生観(人間観)は映画の中の三人、幼馴染の紘(稲垣吾郎)、瑛介(長谷川博己)、光彦(渋川清彦)の関係にも現れています。いや、三人だけではないですね。登場人物皆、隠しごとなどない人物ばかりです。妻の初乃(池脇千鶴)もそうですし、息子の明(杉田雷麟)は同級生のいじめにあっていても、それを自分ひとりで抱え込む人物には描かれていません。

インタビューでは「半世界」の意味するもの、それはつまり映画のテーマということになりますが、

今回は(略)日本の小さな地方都市の話がやりたいと。ただ、“世界”というワードには触れたいと思ったので、(略)日本の自衛隊の現状に触れてはいるけれど、そこの社会性だけで観る映画ではなく、「人は生まれて死ぬ」という、単純なところを真ん中に置きたかったわけです。(東京国際映画祭

と語っており、まさしく映画はそのとおりにできています。

つまり、元自衛隊員の瑛介がマクロな意味での”世界”を象徴しており、一方ミクロな意味での”世界”は、父親の跡を継いで炭焼きを続ける紘が象徴しているということになります。

もうひとりの光彦はといえば、本人が自慢げに(笑)語っている中学時代のエピソードのとおり、二等辺三角形の底辺の役割ということでしょう。映画のつくりとしてもそのとおりになっており、光彦は映画に拡がりをもたせる程度の役割で、やはり物語の軸は、紘と瑛介の二人がそれぞれ抱えている問題ということになります。

紘は炭焼きで生計を立てています。山から木を切り出して窯で焼くわけですから地方都市というよりも現在的意味で言えば過疎地でしょう。父の代には何人か雇っていたようですが、紘はひとりでやっています。妻の初乃が事務作業をやり、時には炭焼きを手伝うこともあるようです。

ただ、経営的に希望が持てる状態ではなさそうです。そんな家業を紘が継いだわけは父への反発からだったようで、これが息子の明との関係の伏線になっています。

という紘が抱える一番の問題は、その明との関係です。ただ関係といっても、紘の方は息子に対してかなり無頓着で、映画的にはあまり深まっていません。

本当は、無頓着を装っていても内心かなり応えている父親像であればずいぶん違った映画になったのではないかと思いますが、稲垣吾郎さんの紘には都会人の淡白さ(どういう意味?)が前面に出てしまっており、たとえば炭焼きにしても、父親に反発して貧乏くじを引いてしまったかもしれないとの後悔や、あるいは逆に意地でも続けてやるといった、それこそミクロな世界観を感じされるものがありません。

明はそんな父親を「アンタはオレに全く関心がもっていない」(台詞は違うと思う)と、もっとこっち向いてくれよという屈折した気持ちを持っています。

こんなシーンがありました。明が(強要されて)万引きをして補導され、紘が警察に迎えにいきます。二人が警察から出てきます。あれこれあって、明が反抗して立ち去るのですが、紘はしばらく目で追った後振り返ることなく車で出ていってしまいます。明が振り返るカットが入ります。

後に明は、紘に振り返って欲しかったといって責めます。紘は、お前が振り返らずそのまま行ってしまうのを見ることが怖かったのだ言います。(ちょっと違っているかも)

やや作られすぎた台詞だとは思いますが、それにしても、あんなに簡単に、まるで張本君のリターンエースのように台詞を返してはだめでしょう。稲垣吾郎さんの紘は本当に明に関心を持っていません。

明の方は、うーん、どうなんでしょう? こちらは脚本と演出の問題ですが、あの明があの同級生たちにいじめられていること自体に違和感を感じます。明という人物にはすきがありませんし、村で噂にもなっている、母親も知っているといういじめというのがどうもストンと落ちないといいますか、あるいは現代的ないじめというよりも、紘たちの時代の、あるいは監督の時代のいじめをイメージしているのかもしれません。たしかに、いじめ側にいじめを指示する親玉がいました。おそらく現在のいじめはああいう誰かひとり指示する者がいて、それに服従して誰かをいじめるというパターンではないでしょう。

ある時、明は、いじめる同級生に抗って、それも紘が焼いた炭で子分たちをやっつけるわけです。それをじっと見つめていた親玉が、もう行けよと、つまりもういじめないというわけです。で、ですね…、その親玉は、オレも前の学校ではお前と一緒だったと言うのです。

えーーーー!?

阪本監督のわかりやすさと言うべきでしょうか…。

それを機に明と紘は、紘たち幼馴染の三人がその昔、オレたちいつまでも一緒だぜ!と(夜なんだけど)海に向かって青春した同じシチュエーションで親子の情を確かめるのです。

一方の瑛介は自衛隊に入隊していたのですが、突然故郷に帰ってきます。両親ともに亡くなっており、廃屋同然になっている家に住み始めます。紘や光彦が昔通りに接しようとするのですが、避けるように家に閉じこもってしまいます。

自衛隊員と聞いてすぐにわかってしまうこと自体に問題ありだとは思いますが、PKO海外派遣からのPTSDで、部下を死なせてしまったことを自分の責任だと思い詰めています。

結局、これは解決することなどないことで、無理やり連れ出されて三人で飲めば異常にハイテンションになったり、突然落ち込んだりを繰り返しています。

と、見ればそのように見えるのですが、これもあまりうまく描かれいるとは言えません。実際のPTSDがどんな症状となって現れるかわかりませんが、映画的には、そもそも長谷川博己さんが退役(退職)した自衛隊員には見えません。萬平さんに見えるとはいいませんが(笑)、苦しんでいる姿がひとり家にこもって他人を拒絶しているという描き方はあまりにもステレオタイプです。

ある時、光彦がアブナイ人たちに絡まれているところに紘とともに通りがかり、自衛隊で鍛えた格闘技の技で相対するうちに次第に放心状態になり、そのうちのひとりを今にも殺さんばかりに殴りつけてしまいます。ふと我に返りなんとか事なきを得ますが、瑛介は再び皆の前から消えてしまいます。

そしてクライマックス、という言葉のニュアンスではありませんが、紘がひとり炭を焼いている時に心臓発作で死にます。

あーあ、やっちゃいましたか…。

誰かを殺してオチをつけるってのはどうなんでしょう?

半世界も何もあったものじゃないと思いますけどね。さらに言えば、その後、息子の明が炭焼きをするシーンを入れて映画を終えています。

そんなオチをつけたら、「半世界」のなんの問題提起にもならないんじゃないんでしょうか?

阪本順治監督、「闇の子供たち」くらいしか見た記憶がありませんが、その映画でも主人公の男(江口洋介)に自殺させていました。

闇の子供たち

闇の子供たち