「コレット」(ネタバレ)キーラ・ナイトレイの演技とやさしい演出でよき人コレットに

シドニー=ガブリエル・コレットさんの半生を描いた映画です。ウィキペディアによりますと、1873年生まれ、1893年(20歳くらい)に結婚し、1906年(33歳くらい)に離婚とありますので、その間の13年間くらいが描かれていることになります。

 

コレット

コレット / 監督:ウォッシュ・ウェストモアランド


公式サイトに「フランス文学界で最も知られている女性作家」とありますが知りませんでした。それにしても、映画の中の13年間だけでもすごい女性だなあと思いますが、ウィキペディアのその後の生涯を読みますとさらに驚かされます。画像検索しますとたくさんの写真が残っています。ジャン・コクトーと一緒に写っている写真もありますし、映画の中のワンカットと同じ構図のものもあります。

 

コレットをやっているのはキーラ・ナイトレイさんですが、とてもよかったです。結構見ている印象なんですが、このブログには「危険なメソッド」しかありません。それにあまりいいことは書いていません(ペコリ)。

 

この映画のコレットのような役柄があっているということでしょう。何ていうんでしょう、男性との距離感といいますか、依存タイプではないのに依存することも出来るといいますか、依存している自分を許すことが出来るし、それも自分の一部でしかないことを内面的に知っているといいますか、まあ、要は、キーラ・ナイトレイを通して見たコレットがそうであったということで、とにかくよかったということの回りくどい表現です(笑)。

 

パリから150kmほど南に下った自然豊かなサン=ソーヴル=アン=ピュイゼーから始まります。両親と暮らす20歳(さすがにちょっと無理?)のコレット(ガブリエルと呼ばれている)にウィリー(ドミニク・ウェスト)が会いに来ています。

ウィリーが帰っていきますと、両親は、彼はコレットにぞっこんだと喜んでいます。コレットは、どこでしたかちょっと出掛けてくるといって出ていきます。離れた納屋でウィリーが待っています。すでに性的関係があるということです。

 

この冒頭のシーン、なくてもいいのにと思う程度にしか描かれていませんが、夫となるウィリーから、後によく「田舎娘 country girl」呼ばれていましたし、映画の中ほどではウィリーが田舎の家をコレットにプレゼントするなど、コレットに田舎への憧憬があるように描かれています。

映画では、コレットは一人娘のようにみえますが、実際は4人兄弟姉妹の末っ子のようで、家庭ももとは裕福でしたがコレットが結婚する頃にはかなり苦しい生活状態だったらしく、映画では、母親が結婚に関して持参金のない娘がどうのこうのと話していました。

 

ただ、そんなこととはまるで関係なく、次のシーンは、すでにウィリーと結婚しており、コレットのサロンへのデビューシーンとなります。ただ、このシーン、垢抜けない田舎娘がスノッブたちに揶揄されるというありがちな描き方はされていません。

ウィリーから贈られたドレスは自分に合わないからと、自分の気に入ったいつものドレスを着ていき、案の定、見下すような視線を投げかけられるのですが、そんなことなど構わず堂々としたものです。

それに、ウィリーも、出掛ける際に自分の贈ったドレスをなぜ着ない?とは尋ねますが、それっきりで、サロンでもそんなこと一切構わず、妻のコレットだと紹介していました。

 

1900年頃のパリはベル・エポックと呼ばれる成長期にあり、1889年の万国博覧会ではエッフェル塔を建設、さらに1900年の万国博覧会では来場者は4800万人を数えたそうで経済的にも繁栄していたんでしょう。文化的にはアール・ヌーヴォーという美術様式が花咲いた時期でもあり、要は皆が消費文化に浮かれていた時代ということです(非難ではない)。

 

で、夫となったウィリーというのは、そうした時代の中でうまく立ち回っていた人物らしく、本名はアンリ・ゴーティエ=ヴィラールでウィリーはペンネームなんですが、映画の中ではウィリー自ら何かを書くようなシーンはまったくなく、ライターと打ち合わせてあれこれ書くように依頼し、それをウィリー名で出版することを隠しているようでもなく、いわゆる編集者のような立場の人物として描かれています。もちろん、公にはウィリーの作品ということで売り出していますし、字幕ではライターのことをゴーストライターと表現していました。

 

今のように著作権という価値観が確立していなかったんでしょうか、どうなんでしょう?

 

いずれにしても、そのことに対してウィリーに罪悪感があるような描き方はされておらず、たとえば、中ほどのお金をめぐるライターとの言い争いのシーンでも、ライターがばらしてやる!とか言うわけでもなく、ウィリーがそうしたことを恐れるわけでもなく、ごく普通に喧嘩をしていました。

そうしたこともあり、映画の中のウィリーはさほど嫌味なやつではなく描かれています。それは人間関係においてもそうで、ウィリーは、時代の空気もあるのでしょう、女性との関係もあれこれあり、コレットがその現場を見つけ田舎に帰ってしまうシーンがありました。ただ、ウィリーのキャラクターとしては、そうしたことにもさほど悪びれることもなく、後には、逆にコレットに同性との性的関係を促すこともあります。

 

話が長くなっていますね(笑)。それだけいい映画だったということです。

 

当初、コレットはウィリーの手紙の代書のようなことをやっていたのですが、ある時、ウィリーはコレットが学校時代の思い出を語るのを聞き、その思い出を物語に書くことを勧めます。

書き上がった作品を読んだウィリーは、ここが結構微妙な描き方で、つまり、ウィリーは集中して一気に読み切りますので、なにはともかく良かったわけですが、コレットに対しては、これは出版できない、フェミニンすぎる、優しすぎると言うわけです。 

映画として取り立てて優れた表現ということでもありませんが、この映画、とても優しい映画で、ここでもウィリーに嫌味さはまったくなくさらりと言わせており、それを受けたコレットもさらりと流しています。でも、コレットに才能があり、それをウィリーも認めていることをきっちり見せていますし、その才能が世にでないのはウィリーの傲慢さや偏屈さではなく、時代のなせることという描き方がされているのです。

 

実際、コレットの作品が世に出ることになったのは、ウィリーの(コレットを含めた)金銭状態が悪くなり家財を差し押さえられたためであり、その時点で即コレットの作品を出版しようと考えたということは、最初からウィリーにもこれは売れるという確信があったからであり、普通ならウィリーって嫌な奴と思ってしまいますが、そう思うようにはつくられていません。

 

で、「学校のクローディーヌ」は爆発的に売れ、ウィリーはコレットに田舎の家をプレゼントします。

 

続いて書いた続編の「パリのクローディーヌ」も売れます。このあたりから徐々にコレットが変わっていきます。

 

ジョージー・ラオール=デュバルという女性と出会います。いくつと言っていたか、かなり年上の伯爵(侯爵?)と結婚しており、今、夫はどこどこへ行っていないと誘いをかけてきます。

このあたりの描写はかなり直接的で、コレットとジョージーは食事中に互いへの関心を隠そうともしませんし、ウィリーは、相手が女性なら構わないと考えたのか、自分のジョージーへの関心の裏返しなのか、コレットにOKサイン(比喩)を出しますし、コレットがジョージーを訪ね、即ベッドインですし、その後、ウィリーもまたジョージーと関係を持つという流れです。

 

早い話、コレットの次のステージへのワンステップみたいなもので、ウィリーが象徴する社会的規範を、そのウィリー自身が持つ欺瞞を利用して乗り越えていくみたいなことでしょう。

 

ウィリーは、この自分たちの関係をクローディーヌの物語として書くように促し、コレットもそれに応えます。しかし、ジョージーの夫にばれてしまい、その圧力で出版間際にすべて焼却されてしまいます。

 

このジョージーをめぐる一連のエピソードは事実なんでしょうか、どうなんでしょう? 事実であるかどうかはともかく、映画が語っているのは、このことによってコレットのなにかに火がついたということであり、一方のウィリーはそのことに気づかず、未だコレットが自分の手の内にあり、自分あっての存在だと思い上がっていたということでしょう。

 

出版できなくなった二人は、クローディーヌの物語を舞台化し、これも大成功、「クローディーヌ」は時代のアイコンとなり、皆が髪型をまね、その名を冠した化粧品や石鹸が売り出されます。また、同時にコレットの興味はパントマイム的なパフォーマンスへ移っていき、自分も試みるようになります。

 

そんな時、コレットはミッシー(デニース・ゴフ)というナポレオン三世の血をひくという男装の女性と出会います。

 

このミッシー、映画的には、コレットがさらに開放(かな?)されていくきっかけとなる、かなり重要な役回りと思われますが、映画全体の中ではあまり立っていません。ちょっと残念ですね。

 

ミッシーの影響でコレットも男装をするシーンがあり、ウィリーが逮捕されるぞと嫌な顔をしていましたが、実際その時代のパリでは女性がズボンをはいたりスリーピースを着てはいけないという決まり(法律?)があったそうです。

英語版のウィキペディアには二人の写真があります。

トランスジェンダーだったという説もあるようですが定かではありません。この時代、すでにMtFのトランスジェンダー、リリー・エルベさん(1882~1931)という方がいます。「リリーのすべて」のモデルとなった人物ですが、仮にミッシーがトランスジェンダーだったとしても、女性であるがゆえに公表できるものではなかったのでしょう。

 

ミッシーはコレットに(台詞は忘れましたが)夫の庇護のもとにいることはないといったようなことをささやきます。コレットは、結構自由にさせてくれるなどと答えていましたが、次第にクローディーヌ本がウィリー名で世に出ていることに疑問を持ち、ある時、自分の名前を入れたいとウィリーに訴えます。

ウィリーは、ウィリーの名前で売れているのだ!お前の名前などで売れるはずがない!と激しく拒否、コレットも激しい怒りで「シドニー=ガブリエル・コレット」と自分の名前を記したノートを書きなぐるようにし、ふと目を落としたノートには「コレット」のみが消されずに残っているというシーンとして、印象的にコレットの変化を表現していました。

 

コレットはステージパフォーマンスにのめり込んでいきます。ミッシーと共演し、舞台上でキスをしますと客席からは物が投げつけられるということも経験し、時に自分の胸をはだけるようなこともやります。

 

社会的規範への挑戦ということですが、映画はさほど強調するわけではなく割とさらりと流しています。実際、本人にどの程度の意識があったかは定かではありませんので、エンターテイメントしては程よいバランスだとは思います。

 

ウィリーの方はすっかりだめになってしまいます。お金に困ったウィリーはクローディーヌ本の著作権を売っぱらってしまいます。

怒ったコレットはついに絶縁宣言。

ウィリーは秘書にコレット自筆の原稿を焼却するように言いつけ消えていきます。

秘書は焼却せず保管、映画にはありませんが、後にコレットの手に渡ったそうです。

 

そしてコレットは、「コレット」の名前で「さすらいの女」を書き上げ、出版、これも好評をもって迎えられます。

 

ラストシーン、舞台に立つコレット、カメラはスポットライトに照らされたコレットを後ろからとらえます。そして、コレットは大きく羽ばたくように両手を広げます。

 

監督のウォッシュ・ウェストモアランドさん、パートナーのリチャード・グラッツァーさんを2015年に亡くして以来、初めての作品ということです。脚本にはリチャード・グラッツァーさんの名前もクレジットされています。

 

キーラ・ナイトレイさんがはまったということもありますが、人間に優しすぎるじゃないの、特にウィリーには優しすぎるでしょうという、とてもいい映画でした。

 

ただし、シドニー=ガブリエル・コレットの映画としては、もっとはじけたコレットを見てみたいと思います。

 

アリスのままで(字幕版)

アリスのままで(字幕版)