シェイクスピアの庭

男系幻想とジェンダー、セクシュアリティ、宗教、家族再生幻想

「シェイクスピアの庭」なんていうタイトルから、シェイクスピア(以下、ウィリアム)が田舎へ戻り穏やかな余生を過ごす話かと思っていましたら、とんでもない、シェイクスピア一家の結構シビアな愛憎物語でした。

もちろんフィクションですが、ウィリアム本人にとってはかなり衝撃的な秘密が明らかになりますので、「シェイクスピア 晩年の真実」のようなタイトルで売ればよかったのにと思います。ちなみに原題は「All is True」です。「ヘンリー八世」の当初のタイトルにかけてあるようです。

シェイクスピアの庭

シェイクスピアの庭 / 監督:ケネス・ブラナー

この映画は事前にシェイクスピアについていろいろ読んでから見たほうがいいです。作品からの引用も多く、特に詩人としての側面が強調された映画ですので『ヴィーナスとアドーニス』や『ソネット集』は読んでいないまでも概要を知っていると見やすいかと思います。

物語は、1613年6月29日、ウィリアムが火事で燃え上がるグローブ座を見つめるシーンから始まります。「ヘンリー八世」の上演中に舞台で大砲を撃ったことから引火したそうです。

火事が原因であったかどうかはわかりませんが、その後、ウィリアムは生まれ故郷の妻や子どもたちが暮らすストラトフォード=アポン=エイヴォンに戻り、3年後の1616年に52歳でなくなっています。その3年間の物語です。

ウィキペディアによれば、その3年間で確認されている事実は、次女ジュディスの夫トム・クワイニーが「教会裁判所で婚前交渉の嫌疑で告発された」こと、それによりウィリアムが遺言を修正したこと、そして妻アンに「2番目に良いベッド」を残したことくらいらしく、それらは映画の中に取り入れられています。

映画の作りとしては上品な格調高さを求めているように感じられ、衣装や美術は重厚でそつがありません。室内のシーンはろうそくの灯りっぽい照明で顔だけを浮かび上がらせたりとかなり暗さと陰影が強調されています。画はほとんどフィックスで広角のレンズを使い仰角で撮られたシーンが多いです。

そうしたことからも、物語が流れるように入ってくる運びではなく、各シーンがやや並列的に並べられていきますので、特に前半は誰が誰なのかを頭に入れておかないと掴みづらいことが多いです。それを乗り越えますと後半は集中して見られます。

およそ400年前の話ですが、現代にも通じる、と言いますか、逆に現代的テーマをシェイクスピア晩年の3年間の物語に組み込んで描いている印象です。

男系幻想とジェンダー

次女ジュディスには11歳で亡くなった双子の兄弟ハムネットがいます。

ウィリアムはストラトフォードに戻り、妻や娘たちにハムネットのために庭を造ると宣言します。実際に何シーンか庭造りをするシーンがあり、また後に「シェイクスピアガーデン」という名で庭園が作られたりしたところから邦題はとられているのでしょうが、重要なのは庭造りではなく、ウィリアムが異常なまでに長男であるハムネット、ハムネット個人であるかどうかよりも「男の子の跡継ぎ」にこだわっていることです。

ジュディスにとってみれば、ウィリアムのハムネットへの思い入れはその分身ともいえる自分への否定にうつります。ジュディスのウィリアムへの愛憎はこの映画の重要な要素となっています。ジュディスの怒りと悲しみの混じった言葉の強さには驚かされます。

ウィリアムは、ハムネットが生前に書いた詩を、言ってみれば、さすが我が息子といった感情なのでしょう、ジュディスやアンの前で幾度となく褒めそやし、その死を悼みつつ耐え難いものとして語ります。

ところが、(映画の中の)真実は違います。ハムネットの死の真相とともにそれが明かされます。映画的にはそれがクライマックスになっています。

ジュディスは涙ながらに吐き出すように語ります。

「お父さんが持っているその詩は、ハムネットが書いたのではなく私が口ずさんだものをハムネットが書き留めたものよ。ハムネットはお父さんの期待を重荷に感じて苦しんでいた。お父さんはハムネットがペストでなくなったと思っているけれど、あの夜、いなくなったハムネットを探しに行くとハムネットは湖に浮かんでいたの…」

ジュディス自身もハムネットではなく自分が死ねばよかったんだと自らを責め、また父親がそう思い、自分が軽んじられていると感じており、こうも言います。

「ハムネットが学校へ行っている間、私は台所に立つだけなのよ」

悲しみの表情を浮かべて助けを求めるようにアンを見つめるウィリアム、アンはきっぱりと答えます。

「ハムネットは疫病(ペスト)で死んだの」

これ以降、ウィリアムは変わります。ジュディスには詩を、そして妻アンには字を教えようと言います。アンは字が書けず、結婚証明書にはばつ印を書くしかなく恥ずかしかったと語っており、ラストシーンではアンが結婚証明書にサインをし、穏やかなシェイクスピア一家に戻っています。

壊れた家族が真実を知ることで良い関係に戻り、また真実を知るには個々がひとりの人間として認め合わなくてはいけないということでしょう。現実には多くの場合そうはいかないだろうという意味ではファンタジーではあります。

シェイクスピアの、あるいは社会のセクシュアリティ

映画が俄然面白くなるのは中盤、ロンドンでのパトロンであったサウサンプトン伯爵がウィリアムを訪ねてストラトフォードにやってくるところからです。


All Is True | “I’m Suspect” Official Clip HD

ふたりのダイアログがろうそくの片明かりの中で切り返しで描かれます。

ウィリアムが自らのソネットを朗読してサウサンプトンへの愛を語ります。それがどの程度性的な意味合いを含んでいるかはわかりませんがかなり熱い思いを語っていました。

対してサウサンプトンは、君の私への愛は君のあるべき姿ではない(みたいな感じ)でさらりと返し、帰り際、ソネット29番(らしい)を暗唱して思いはしっかり受け止めている(という意味かな?)とウィリアムを慰撫していました。

ウィリアム本人のセクシュアリティについてはウィキペディアにも項目があり、それはおそらくソネットから派生した論争なんでしょうが、それを逆手に取ってとても格調高く描いていたように思います。

なお、映画ではイアン・マッケランさんがサウサンプトンを演じていますのでかなり年上にみえますが、実際にはウィリアムよりも10歳ほど若く美男であったそうです。

セクシュアリティという点では、社会のという意味で、その当時の性的な人間関係がどう捉えられていたかに対する映画の答えが示されているようにみえます。

長女スザンナには夫がいますが、夫が寝ている間に別の男のところへ向かいます。その後のシーンはありませんが性的関係があることは明白ですし、それを見たものが公にしますので町の誰もが知ることになります。ましてや、スザンナが家に戻った時に、眠っていたと思った夫がパチリと目をあけるカットまで入れています。また、スザンナが梅毒であったと暗示させるシーンまであります。

ただ、これらのことがスザンナにとってもシェイクスピア一家にとっても社会的に致命的なことになるわけではありません。これが単に映画の主要なテーマがそこにはないことを示しているのか、当時の社会がこうしたものであったと映画が言おうとしているのかはよくわかりません。

次女ジュディスの結婚に関しても同じような描き方がされています。

ジュディスは結婚に対して抵抗感を持っているようですが、結局言い寄られていたトムと結婚する道を選択します。それも突然トムに二人で飲みましょと言い、そのままキスをして物陰に倒れ込みます。

そして、教会での結婚式、家族全員が人々の前に居並び、ウィリアムは誇らしげにスピーチします。その時、トムには他の女性のお腹にトムの子どもがいることを町中の皆が知っている、もちろんウィリアム自身も知っているわけです。そしてその場には町中のスキャンダルとなったであろうスザンナ夫婦も座っています。

これらにことさら強く主張する意味合いはないとは思いますが、それでもその時代の社会的なセクシュアリティを(現代的意味において)描こうとしていることは間違いないでしょう。

宗教対立

これははっきりとは掴みきれませんでしたが、何やら宗教的な対立がベースにあるような気がします。当時のイギリスはカトリック、イングランド国教会、改革派ピューリタンが対立していたと思いますのでそれが反映されていたんでしょう。

スザンナの夫ジョン・ホールはピューリタンであり、当時のピューリタンは演劇を罪深いものと見ていたらしく、後のピューリタン革命では劇場が閉鎖されたとのことです。

ウィリアムとジョンの論争も前半でもありうまく理解しきれませんでした。ウィリアム本人はカトリックだったのか、アンに教会(国教会)へ行くよう促されるシーンでは乗り気のなさで抵抗していました。

ちなみに、カルヴァン派プロテスタントであるピューリタンがメイフラワー号に乗ってアメリカ大陸に向かったのは1620年で、ピューリタン革命は1942年あたりからです。

こうした歴史的背景が、ウィリアムがストラトフォードに戻ったことにも関係しているのかも知れません。

家族再生幻想

庭造りはあまり重要ではないと書きましたが、考えてみれば20年間不在であった一家の主、それはおそらく経済的な意味においてのみの主だったわけですが、そんな主が突然帰ってきてもそう簡単に家族の一員にはなれないでしょうし、せいぜい最初は庭いじりくらいからというのは至極当然のことで、それは現代でも変わらないでしょうし、ある意味、これもまた現代からのシェイクスピア晩年の読み替えかもしれません。

したがって、庭を家族再生の意味で象徴的に捉えるとすれば、当初、ウィリアムがハムネットのために庭を造るといった時、アンには、彼は庭など必要としていないと返され、それに対してウィリアムは、私はかつて森を根こそぎダンシネインまで動かしたことがあると、マクベスを引用していたのも、ある種居場所のない主の強がりであり威厳を保とうとしたと読めます。

アンはそれに何と返したか、確か、それは現実じゃないといったような意味だったと思います。

そうした関係が徐々に変化していき、アンが庭造りを手伝ったり、庭でスザンナの娘と戯れたりする様子は次第にウィリアムが家族として受け入れられていく象徴的な意味合いだったともいえます。

実際に遺書に残されたという「2番目に良いベッド」のエピソードも、映画では同じような意味合いで描かれています。 

ウィリアムは戻ったその日、アンとともに寝室に入ろうとしますが、アンは、ゲストには最上のベッドを用意してあると言ってウィリアムをゲスト用の部屋へと促します。

それが、ハムネットの死についてのわだかまりが溶けた後には、アンは、今日は2番めに良いベッドで眠りましょうと寝室に誘います。

家族再生の象徴的なシーンはアンが結婚証明書にサインするシーンですので、たとえば庭が完成したよみたいなシーンはありませんが、それでもろうそくの灯りだけの室内ではなく開放的な屋外の「シェイクスピアガーデン」は家族が再び心を通わせあうにふさわしい空間なのかもしれません。

そして、それはシェイクスピア俳優であるケネス・ブラナー監督が願うシェイクスピアの晩年なのかもしれません。

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