愛がなんだ

今泉力哉監督による(超)日常会話的片思い恋愛劇

5人の男女の恋愛模様を2時間見続ける映画です。

って、ちょっと嫌味っぽく聞こえるかもしれませんが、そうでもなく、5人皆うまいですし、丁寧に作られていますし、(おそらく)今泉力哉監督のやろうとしていることもきっちりできている映画だとは思います。

愛がなんだ

愛がなんだ / 監督:今泉力哉

ただ、これ、客観的に見る映画ではなく、テルちゃんに感情移入して見ないと面白くないんじゃないでしょうかね。

結局、他人の恋愛話を聞かされているわけですから、その趣味があるか、あるいは自分がテルちゃん体験をしている真っ最中であるとか、そうでもなければ、ひとこと、めんどくさで終わってしまうような話です。

5人皆非対称カップル、早い話が片思い、というよりも好きという感情と一緒にいると心地よいという感情の間でうろちょろしている関係です。

テルちゃん(岸井ゆきの)は、あるパーティーでなんとなく馴染めずにいるところをマモちゃん(成田凌 )に話しかけられ、その日からマモちゃんからの連絡を待ち続ける日々を送ることになります。これを一目惚れというのであればそうなんでしょうが、自分から動くことはしません。ただ待ち続けるだけです。ですので、そうした状態にある自分が好きという感覚ともいえます。

で、ひとたびマモちゃんからの連絡を受ければ、何をおいてもマモちゃんの言うことをききます。たとえば、夜電話があり、もしまだ会社にいて帰るところなら、帰りに何か買ってきてくれない? と言われれば、もうすでに家に帰っているにもかかわらず、まだ会社、今帰るところ、とか言って嬉々として駆けつけ、さらに、カビ取り剤まだ買い込んで、頼まれてもいないのに風呂の掃除までしてしまいます。

こんな感じです。後半にはそのせいで仕事までやめてしまいます。

一方のマモちゃんは、結果として、そんなテルちゃんを都合のいい女として扱っています。その意識があるかないかは本人に聞かないとわかりません(笑)。

これじゃあまりにもひどいと思ったか(どうかはわからないが)、この二人の逆パターンの男女を友人としておいています。

テルちゃんには(幼馴染の?)友人の葉子がいます。葉子はマモちゃんタイプで、相手のナカハラ(若葉竜也)は葉子のそばにいるだけでいい? そうじゃなくなんて言っていましたっけ? 呼んでくれるだけで嬉しいとか言っていたような、要はテルちゃんタイプということです。

もうひとりのすみれ(江口のりこ)は4人とはちょっと異質な人物です。年齢もちょっと上の感じで、映画の中の表現としては、ガサツで無神経でセンスもちょっとずれていてタバコを吸い肌も荒れている女性です。

マモちゃんはそんなすみれが好きです。すみれと会うためにテルちゃんを利用したりします。でもテルちゃんは喜んで(いるかどうかは?)付き合ったりします。

この5人、主に2人の(超)日常的な恋愛会話が延々と続きます。

かなりの長回しもありますが、会話の間合いもいいですし、演技も(超)日常的で、あれを自然というのならばむちゃくちゃ自然です。

でも映画的ではありません。

早い話、自然過ぎます。それにきれい過ぎます。映画の中の本人たちが言っているように、テルちゃんにしても、ナカハラにしても、実際気持ち悪いわけですから、もっと気持ち悪くしないと映画になりません。

ただ、どうこう言っても、この自然さこそが今泉力哉監督の求めるものなんでしょうし、非対称恋愛こそが描きたい恋愛観なんですからしょうがないわけで(笑)、その意味では何度も言いますが、きっちり作られた映画だとは思います。

過去の映画では「知らない、ふたり」を見ていますがあまり思い出せず、読み返してみましたら、やはり同じようなことを書いています。

で、映画の最後はどうなっていましたっけ? 

ああ、そうそう、これ、映画が長く感じられた原因になっていたのですが、4人(3人?)の名前がタイトル風に入り、その結末的な4(3?)シーン続いていました。

ナカハラは葉子に別れを告げることにします。それも自分がいい子になって(笑)、自分のせいで、つまり自分が何でも葉子のいう通りするから葉子が裸の王様になっている、悪いの自分だとか、それをわざわざテルちゃんに言いにきていました。

テルちゃんに自分を見つめ直せという意味なんでしょうか。

でも、テルちゃんはそんなことで自分を曲げる(変える?)ような女性ではありません。テルちゃんの恋愛道はまだまだ続きます。(だったかな?)

そうだ、そうだ、やっぱりテルちゃんをもっと気持ち悪くすれば誰にでも楽しめる恋愛映画になった…とか?

知らない、ふたり

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愛がなんだ (角川文庫)

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