「モロッコ、彼女たちの朝」ネタバレレビュー・あらすじ:少ない台詞と抑制された演出で静かなるフェミニズム

予想に反してとてもいい映画でした。

劇場で本編映画の前に流れる予告編をぼんやり見た印象と邦題「モロッコ、彼女たちの朝」の響きから、それぞれ問題を抱えるふたりの女性が助け合いながら問題を解決していく甘めのハッピーな映画なんだろうと思っていました。

違っていました。とんでもなく厳しい映画でした。

 

モロッコ、彼女たちの朝

モロッコ、彼女たちの朝 / 監督:マリヤム・トゥザニ

 

 

抑制された演出とふたりの俳優

問題を抱えるふたりの女性ということも間違っていませんし、助け合うというところも間違っていません。

 

ただ、お互いにも、そして、それぞれ自分にも甘えをゆるすところがないんです。

 

特にエンディング、てっきりアブラが「ここで育てなさい」というのかと思っていました。とんでもなかったです。サミアはどうするんでしょう。ひとりで育てるということなんだと思いますが、苦難が思いやられます。

 

少ない台詞と答えのない結末

物語はシンプルで、小さなパン屋を営むシングルマザーのアブラ(ルブナ・アザバル)と臨月を迎えるかという未婚の妊婦サミア(ニスリン・エラディ)のひとつき(長くて)程度の交流を描いているだけです。

 

場所もアブラの店舗兼住居がほとんどで変化はありません。始まってしばらくと映画の中程にワンシーンずつカサブランカの旧市街のシーンがあるだけで、それ以外は室内のアブラとサミア、そしてアブラの娘ワルダのシーンだけです。

 

なのに、ふたりの台詞が極端に少なく、さらにふたりの顔をアップで捉えた画が非常に多いのです。それもそれぞれひとりのシーンですので、その顔をじっと撮っているということは、その時、アブラなりサミアなりがなにか思い巡らしているだろうことを撮ろうとしているわけです。画が台詞ということなんだと思います。

 

で、ふたりがその時何を考えたかを想像しながら見ていくわけですが、率直なところ、ほとんどわかったようでわからないまま進んでいくしかありません(涙)。映画は最後までなにも教えてくれません。

 

 

サミアは、出産前には未婚の自分が生む子どもの将来を思い、養子に出すことを考えているわけですが、実際に生まれた自分の子どもと対面し、長い、長い葛藤を経て、アブラのもとを去ります。その長い、長い葛藤の結論さえも映画は教えてくれません。

 

誰にも頼らず自分で育てる決心をしたんだと思いますが、わかりません。養子に出すことを思いとどまらせようと考えているアブラのもとを去りひとりで役所(正規の養子縁組のシステムがあるよう…)に行くのかもしれません。思い切って実家に戻り、親を説得して育てるつもりなのかもしれません。

 

ふたりの俳優の存在感

アブラを演じているルブナ・アザバルさんとサミアのニスリン・エラディさん、どちらも俳優としての存在感がすごいです。

 

言い方を変えれば、アップに耐えられるという意味でもありますが、こう考えているんだろうか、いやこうだろうかとその強い意志表示に釘付けになります。

 

ルブナ・アザバルさんは2、3本見ている俳優さんですが、ニスリン・エラディさんは初めてです。1989年生まれの32歳でモロッコではかなり活躍されているそうです。ルブナ・アザバルさんを凌ぐ存在感をみせています。今後ヨーロッパでの活躍が期待されます。

 

マリヤム・トゥザニ監督

マリヤム・トゥザニさん、この映画が長編デビュー作とのことです。抑制された映画のつくりがデビュー作とは思えません。

 

わかってほしいと思うがあまり説明的になることもなく、それさえも越えて、あえて説明することを拒否するかのようにただひたすら俳優の存在感にかけた映画づくりをしています。

 

この映画は、2019年のカンヌ映画祭ある視点部門でのプレミア上映を皮切りに世界中の映画祭で上映されています。今後、ヨーロッパから声が掛かりそうな監督です。

 

静かに主張するフェミニズム

かなり抑えられた表現ですが、フェミニズムの価値観が全編を覆っています。

 

アブラ

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アブラがシングルマザーとなったわけは本人がサミアに語ることで明らかになります。具体的になにがあったかは語られませんが、夫は漁師だったらしく、ある時、トラブルが起きたからと呼び出され、そのまま帰らぬ人となったということです。

 

アブラが語っているのは、夫がどういう経緯で亡くなったかではなく、亡くなったあとの自分に対する社会の理不尽さです。イスラム社会であることからということかと思いますが、妻である自分には亡くなった夫と静かに対面する機会も与えられなく、男たちだけで葬儀が済まされてしまったと怒りを持って語っています。

 

率直なところ、アブラの頑なさには一体なにがあるんだろうと、それは映画に集中させられるひとつの要素でもあったわけですが、意外にもあっさりしていて、ん? と多少の違和感を感じもしましたが、それはイスラム社会の女性の置かれた環境を知らない者の感じ方かもしれないと今は思い返しています。

 

サミア

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サミアが未婚の妊婦であることの経緯は一切語られません。

 

故郷からカサブランカに出て美容師として働いてきたことは映画の中の断片的なことから想像できます。それだけです。サミアはなにも語りませんし、アブラもなにも尋ねません。

 

サミアが一貫して、生まれてくる子どもを養子に出すことを前提に考えていることは、いかに未婚で生まれてくる子どもが差別を受けるかということの現れでしょう。

 

子どもの父親のことが一切語られないことは男の無責任さ(もっとひどい)の現れです。なのにこの映画はそれを非難することなく、サミアの毅然とした生き方で、逆に強く男社会の女性に対する理不尽さと、極端な言い方をすれば暴力性を感じさせます。

 

髭はあるが優しい男

唯一映画的に意味のある男としてアブラの店に小麦粉などの食材を納入する男(Slimani?

 名前は忘れた)が登場します。

 

アブラに好意を寄せています。それにとても謙虚で優しい男として描かれています。なのにアブラは頑なに避けようとしています。おそらく夫のことから(男)社会への拒否感があるのだと思います。それをサミアが解きほぐしていくシーンで、アブラはひげが嫌なのと言っています。ひげはイスラム社会の男の象徴です。

 

その後、アブラとその男の間がなにか進展することはありませんが、かなり意図的な男の存在に感じます。

 

いずれにしても、静かに主張するフェミニズムを感じる映画です。

 

ネタバレあらすじ

例によって海外のトレーラーを見たほうが映画の雰囲気がよくわかります。

 

 

大きなお腹を抱えたサミアが仕事を求めてカサブランカの旧市街(らしい)をさまよいます。その日眠るところもなく、雇われそうになった店に泊めてほしいと言ったがためにダメになってしまいます。

 

軒並みノックするも誰も雇ってくれません。アブラの店を訪ねますが断られます。

 

その夜、行くあてもないサミアがアブラの店の向かいの軒先で横になっています。アブラは家に来るように言います。ただ、その物言いはそっけなく冷たいです。

 

ここから最後までふたりの交流がアブラの娘ワルダを交えて続きます。

 

とにかくアブラは心を閉ざしたまま頑なです。それに対して、サミアは先も知れない今なのにどっしりとした余裕があります。何をしてでも生きていけるといった究極の強さが感じられます。

 

当初、アブラはサミアに明日の朝出ていってと言っていますが、そのままとどまることになります。サミアはなにか手伝うことはないかと言いますが、アブラはそっけなく何もないと拒絶しています。

 

ある時、サミアがルジザというパンケーキを作り店に出しますと評判もよくよく売れます。

 

ただ、この映画、たとえばそれを機に店も繁盛しアブラの頑なさもとれるといったありがちなドラマで先に進めようとはしません。アブラの頑なさとそれでもマイペースなサミアのまま映画の中盤まで進みます。なんでアブラはこんなに頑ななんだろうなあとか、サミアの過去はいつ明らかになるんだろうとか考えながら中盤まで来ます。

 

何日後、アブラはサミアに出ていくように言います。何かはっきりした理由があったのかどうか記憶にありませんが、とにかく、サミアは出ていきます。しかし、その夜、アブラは、後悔したのでしょう、ワルダを連れて夜の街にサミアを探しに出ます。カサブランカの町はまだまだ人で満ち溢れています(どういう時間設定なのかわからない)。

 

このシーン、かなり美しく撮ってありました。

 

そして、やっと見つけます。ワルダは最初からサミアになついていますので喜んでいます。ただ、やはりアブラは言葉少なく硬い表情で、帰るわよ(みたいな感じ)と声を掛けるのみです。

 

映画の早い段階で、娘のワルダがサミアに自分の名前は母親が好きだった歌手の名からとられていると言っています。そしてある時、サミアが片付けの最中に見つけたカセットテープを流していますとワルダがその曲を流すと母親が怒ると言います。

 

ここもどういう流れだったか記憶がありませんが、アブラが夫の亡くなった経緯とその時自分が受けた仕打ちをサミアに話します。

 

アブラのパン屋はサミアのつくるパンもありますます繁盛していきます。ある日、サミアが例のカセットをラジカセに入れ流します。止めてというアブラにサミアは、いいえ、聞くのと流し続けます。止めようとするアブラとサミアのもみ合いが続き、次第にアブラの気持ちが緩んできます。アブラにその曲で踊った夫との思い出が蘇ったのです。

 

アブラが変わってきます。鏡の前で自分の体を見つめ、化粧をするようになり、ドレスを着て店に立つようになります。

 

サミアが産気づきます。男の子を出産します。しかし、すぐにいなくなる子だからと名前もつけず、乳もあげようとはしません。

 

サミアの葛藤がかなり長く続きます。思い悩んだ末に赤ん坊を抱き上げ乳房をくわえさせます。サミアと赤ん坊だけのシーンが続きます。アダム(Adamが原題)と名付けます。

 

時はイスラムのお祭りです。役所が休みで養子の手続きができません。サミアは自分の気持にけりをつけたいのでしょう、民間の業者に出すと言います。アブラがそんなことをしたらどこともわからないところに売り飛ばされるととどめます。

 

さらに、サミアの葛藤は続きます。乳を飲ませるサミア、そのままぎゅっと息もできないくらい抱きしめ続けます。(いっそのこと…ということだと思う)

 

そして、次の日の早朝、サミアは荷物をまとめ、赤ん坊を抱き、まだ眠るアブラとアブラをしばらく見つめ、出ていきます。

 

自分の力で育てる決心をしたんだと思います。

 

俳優の存在感を信頼し、少ない台詞と抑制された演出で静かにフェミニズムを語った映画でした。

 

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