追想

男は追想し、女は回想する、という男の妄想

なかなか掴みづらい映画で、「追想」などという邦題やオチのようにくっついている2007年のシーンを主題として見るならば、老年の男が若かりし頃の失敗をまさしく追想する映画ということなんですが、ただ、映画の8割方を占める1962年のシーンから見えてくるのは、やや茶化し気味にも見える映画のつくりとは相反する、かなりシリアスな問題なのかもしれません。

公式サイト / 監督:ドミニク・クック

原作は、イアン・マキューアン著『初夜(On Chesil Beach)』で、脚本化もご本人がされているようです。 

物語は単純です。1962年のロンドン、若いカップルがチェジルビーチに新婚旅行に行き、初めてのセックスがうまくいかず、そのまま別れてしまいます。そして、11年後の1973年、男は偶然、女に娘がいることを知ります。さらに時は経って2007年、ふたりは思い出の場所で再会し、互いに涙を流すというお話です。

こう書いてしまいますと、相当ベタなメロドラマに思われそうですが、映画のほとんどを占める1962年のシーンが2007年からの回想として描かれているわけではなく、時間軸に沿って、突然ぽんぽんと、1973年、2007年へ飛んじゃうわけですから、それにどちらのシーンも印象としては10分くらい(もう少し長いかな?)ですので、やはり冒頭に書いたようにおまけのように感じてしまうわけで、やはり主題は1962年のふたりだとは思います。

で、その1962年といえば、やっとビートルズがデビューした年ですし、いまだスウィンギング・ロンドン(スウィンギング・シックスティーズ)と呼ばれるカルチャームーブメントも起きておらず、社会は従来の権威主義的な考えが支配する保守的な時代だったのでしょう。

フローレンス(シアーシャ・ローナン)は中流階級の家庭に育ち、そうした社会を疑問なく受け入れて育っています。父親は(何のでしたっけ?)会社を経営し、(多分)父権主義の持ち主で、母親も今の自分に疑問を持たない保守的な人物です。本人はバイオリニストとして社会的な成功を目指しています。カルテットのリーダー的な存在であり決して従属的タイプではありません。

一方のエドワード(ビリー・ハウル)は、労働者階級の出身で、ビートニクやロックにあこがれている青年です。父親は教師で、母親は映画の中で「脳に損傷がある」といった表現がされていましたが、絵画にかなり執着が強く、時々常人ではやらないような行動、たとえば突然裸で庭に飛び出したりします。

このふたりの設定からしてももう危ういですね。具体的に知っているわけではありませんが、イギリスの階級社会というのは、階級によって生活環境はもちろんのこと、言葉のアクセントから趣味やスポーツまで違うというじゃないですか。別に越えられない壁ではないのでしょうが、トラブル発生時に、だから言ったじゃないの的な横やりが入りやすいでしょう。

この映画でも、フローレンスの両親はエドワードを田舎者(と訳されていた)と見下していました。

で、こういった環境に育ったふたりの新婚旅行先のホテルでの数時間が描かれ、かなり頻繁に出会いから結婚にいたるまでのエピソードが挿入されます。これが、回想でもなくフラッシュバックでもなく、時々は話題に関係していたと思いますが、割と唐突に入ります。

この手法、まあ飽きるわけではありませんが、ちょっとばかり意図を図りかねます。

一番の問題は、ホテルのふたりはかなりの緊張状態にあるわけですが、その意識レベルとは無関係に過去のエピソードが入ってしまいますので、見ている方はふたりの緊張感を感じることができなくなってしまうのです。

また、逆の面、つまり、通常この手法は、その人物の今がどういう過去も持っているのかとか、なぜ今の状況が生まれたのかとか、その人物をふくらませ、今ある関係を明らかにしていくために使われると思いますが、この映画では、現在のホテルのシーンも過去のシーンも同じような扱いでかなり平板な感じがします。

ですので、結婚にいたるまでのふたりの愛情の深さもあまり感じられず、なんだかキスばかりしていたなあと、まあ今思い返してみれば、キスまでよ、みたいなことだったんですが、エドワードがお預けを食らっていたと言うほどフローレンスが拒否しているようには描かれていません。

その他、ふたりの出会いが核兵器廃絶の集会であったことや、フローレンスがエドワードの母親にごく自然に相対して家族の評価がぐっと上がったり、エドワードがフローレンスの父親の会社で働くことになるものの机もないような物置のような部屋を充てがわれたり、フローレンスがエドワードとの付き合いを隠しているためにカルテットのチェリストから幾度も誘いを受けていたり、ああ、あるいは隠していたのは階級意識が影響していたからかもしれませんね、といった具合にいろいろエピソードは盛り込まれているのですが、それらがひとつのものに収斂していくこともなくなんとなく並んでいる感じです。

なかなか肝心の初めてのセックスシーンに話がいきませんが、もうひとつ、ホテルのボーイたちがディナーのルームサービスをするシーン、廊下でワインを倒しこぼれてしまったのを水で水増ししたり、かなり早い時間のディナーに対してエドワードがこんなに早くと驚いても構わず準備し始めたり、そのワインのテイスティングでエドワードに good (みたいなこと)を言わせたり、あの一連のシーンはどういう意図なんでしょうね。

あれ普通はコメディの手法ですよね。

考えられるのは、エドワードの身の丈のクラスのホテルだということくらいですかね。

とにかく、この映画、(私には)作り手の、ふたりを見る目にあまり優しさは感じられず、茶化しているのではと思うようなところもあり、あまりいい印象は持てなかったです。

やっとふたりのセックスシーンですが、実はこの一連のシーンも、茶化しているわけではないのでしょうが、どこか真正面から描くことを避けているような、もう一歩いけば笑いが取れそうにも思える描き方がされています。

まあとにかく、エドワードは経験がなく、部屋に入ったときから気持ちはそわそわ、立ってキスをしフローレンスのお尻に手を伸ばせば、フローレンスに、このままここでどうなるのかしら(みたいな感じのこと)と言われ、おそらく頭の中はどうベッドへ誘えばいいのかとぐるぐる、そこへ件のディナータイム、時間も早い上に気もそぞろ、何とかベッドに誘い、抱き合ってドレスのファスナーを下ろそうとするも引っかかり、破れるわと言われてしまう始末、その後もあれこれ、面倒なので省略しますが、なんとかフローレンスの下着も脱がせ、自分もシャツ一枚になり、二人重なっていよいよですが、その前に、実は…。

フローレンスは、セックス恐怖症、あるいは男性恐怖症なのです。

ただ、なのですとは書きましたが、正直なところ、そうは見えません。シーンとしては、結婚前にセックスハウツー本みたいな本を読んで嫌悪感があるような言葉を吐いていましたが、それもどこか他人事のような感じで間もなく自分にやってくることに対する嫌悪感は感じられませんでした。

それに、これも中途半端な描き方でよくわからないのですが、過去のシーンとして、船の上でフローレンスが父親に厳しく叱咤されている同じカットが2、3度挿入されており、それがなんとなく父親の性的虐待を匂わせているようでもあり、ただ、それにしてはこの場でのフローレンスの嫌悪感や拒絶に切迫したものが感じられず、とにかく、この映画、フローレンスの人物像が最後まではっきりしません。

で、ベッドの上の二人の続きですが、そう言えば、フローレンスが、まさにその直前にこんなことを聞いていましたね。あなた何人の女性と経験があるの? わざわざこの場でこの質問ですから、フローレンスの人物像の表現のひとつだと思うのですが、私にはフローレンスの何を見せたかったのか皆目わかりません。エドワードは、最初は数人などと曖昧に答えていましたが、ついに初めてだと言います。この時もフローレンスの表情は全く変わりませんでしたので、この会話が何を意図しているのか、とにかくわかりません。

それに、この一連のシーン、実はあまり緊張感は高まっていかないのです。これには前にも書きました、どこかコメディかと思わせるような展開ということもありますが、もうひとつ、こうした展開にもエドワードがさほどばたばたすることなく、どこか余裕を感じさせるようなところがあるのです。これも俳優の演技だけのものなのか、演出的な意図なのかはわかりません。

とにかくベッドの上の話(笑)、そもそもこんな展開でうまくいくわけはありませんが、とにかく、ごそごそやっているエドワードに対し、フローレンスがハウツー本で読んだ通りに自分の手でもって導こうとした瞬間、エドワードは、ああ…と終わってしまいます。

ここまでならまだ取り返しがつくのでしょうが、フローレンスが自分の太ももについたエドワードのXXを気持ち悪い!と叫んで枕で乱暴に拭いホテルを飛び出してしまうのです。

この反応の過敏さからみますと、やはり父親が何か関係しているかもしれません。映画が何も答えていないのですから、あれこれ言っても仕方ないんでしょうけど、原作はどうなっているんでしょう。

そして、チェジルビーチでのフローレンスとエドワード。このシーンがこの映画一番の見所です。

まず、チェジルビーチの景色が美しいです。砂ではなく玉砂利(?)なんですね。 砂嘴っていうんでしょうか、くちばしのように海にせり出した砂浜(じゃり浜)で、まあ、別れ話になってしまうのですが、やっと本音でぶつかり合うことができます。

言っちゃなんですが、二人とも背伸びしていたんでしょう。そのまま結婚まで突っ走ってしまうのはさすがに時代性ということなんでしょうが、こうした男女の別れ自体はあまり時代は関係ないような気もします。今どきセックスなしで結婚にまでいってしまうケースは少ないでしょうから、離婚という形で目立ちはしないでしょうが、男性が初めての場合、同じようなケースはあるでしょうから、今でもそのまま気まずくなって別れてしまうことはあるでしょう。

映画の視点がはっきりしていませんので、単なる別れ話にしかなっていませんが、このシーンのカメラワークは結構美しいです。

砂嘴にボートを一艘置き、フローレンスをぽつんと座らせ、エドワードが玉砂利(?)を踏んで近づいてくるカットにしても、背景が海か空しかないわけで、当然ながらからっとした青空ではありませんのでなんだか切なくなります。

ふたりの言い争いは、その位置関係や身体の向きで気持ちを表現したりしているのですが、最後がいいんですよ。

カメラはエドワード側からふたりをとらえています。台詞は記憶していませんが、フローレンスが許しを請います。エドワードは何も言わずゆっくり背を向けてしまいます。カメラは、正面からのエドワード、その肩越しにフローレンスをとらえたまましばらくあり、そしてフローレンスがゆっくりと振り向いて歩きはじめるにつれて、カメラもズームアウトしつつゆっくり移動し、フローレンスがエドワードから離れていくさまをフレームの両端にそのふたりをとらえたまま横からのショットに移動しつつ、なおかつズーマアウトしていくのです。美しいカメラワークでした。

そして、フローレンスは消えてしまいます。

このシーンだけはむちゃくちゃよかったです(笑)。

後はおまけです。

11年後、エドワードはレコード店をやっています。10歳くらいの女の子がチャック・ベリーはないかと聞いてきます。手にはフローレンスのカルテットの名が入ったバイオリンケース(だったかな?)を持っています。

さらに、35年後、エドワードは、フローレンスと出会った頃に芝生を整備するアルバイトをしていたクリケット場で、自らがプレイしています。フローレンスが11km歩いて会いに来てくれたクリケット場です。エドワードはあまり楽しそうにはみえません。家に戻ります。ひとり住まいのようです。ラジオから(だったかな?)、フローレンスのカルテットが引退コンサートを開くと流れてきます。

そして、引退コンサート、その会場は、付き合っていた頃、フローレンスが有名になってここで演奏することが夢なのと語り、それに対して、エドワードが自分はこの席に座ってそれを聴き、演奏後立ち上がってブラボーと叫ぶよと語り合っていた場所なのです。

演奏の途中、フローレンスはエドワードの姿を認めます。エドワードの目からは涙が溢れています。フローレンスの目からもかすかに涙が…(だったと思う)。そして、演奏終了後、エドワードはブラボーと、声には出さずフローレンスだけに語りかけるのです。

おまけじゃないですね(笑)。男の妄想ではありますが、ベタで結構いいじゃないですか(笑)。でも、映画ではあまり良くは見えませんでした(ペコリ)。

初夜 (新潮クレスト・ブックス)

初夜 (新潮クレスト・ブックス)