ありがとう、トニ・エルドマン

全裸パーティーの意味するもの、そしてラストカット

「ジャック・ニコルソンが自ら名乗りを上げ、ハリウッド・リメイクが決定!!」というドイツ映画なんですが、この映画をハリウッドでやってどうしようというのでしょう?

もう少しスッキリしたコメディタッチの親子ものにはなるんでしょうが、むしろそんなネタならハリウッドにはゴロゴロしているような気がします。

むしろそうしたありふれたテーマをドイツ(いやむしろEU圏かな?)人女性監督が撮ったからこそこの映画ができたということだと思います。

監督:マーレン・アデ

悪ふざけが好きな父ヴィンフリートとコンサルタント会社で働く娘イネス。心配するあまり娘に構う父と、そんな父の行動にうっとうしさを感じる娘。互いに思い合っているにも関わらず、今ひとつ噛み合わない父と娘の普遍的な関係を、温かさと冷静な視線をあわせ持った絶妙のユーモアで描く。(公式サイト

とにかく不思議な映画ですね。

間合いが独特です。これが監督個人のものなのか、ドイツ的なものなのか、あるいは現在のヨーロッパが持つ何かなのかは分かりませんが、とにかく多くのカットで何やらはっきりしない、もっといえば中途半端な俳優の演技や時間の長さのまま次へ進んでいくという感覚です。

ところが、それが単に長い!という否定的な感覚で終わらずに、ん?何だろう? この映画にはなにかがあるね、と思わせられるのです。

物語は単純です。娘イネス(ザンドラ・ヒュラー/サンドラ・ヒューラー?)は、グローバル企業であるコンサルタント会社に勤めており、現在はルーマニアのブカレストで進行中のプロジェクトの責任者で実に忙しい日々をおくっています。

一方、父ヴィンフリート(ペーター・ジモニシェック)はすでに現役引退しているようで、ドイツで年老いた愛犬とともに暮らしています。妻とは離婚しているのでしょう、イネスが元妻の家族の方へ何かの祝い(イネスの誕生日?)のために帰ってきたシーンが導入部分にありました。また、母親、イネスから言えばおばあちゃんですが、近くで一人暮らしのようです。ヴィンフリートは、ある意味悠々自適な老後ではありますが孤独であるとも言えます。

で、イネスが仕事一辺倒で、言うなれば人間性を失っているのではないかと、愛犬が亡くなったことの寂しさもあったのでしょう、ヴィンフリートはブカレストを訪れ、持ち前の風変わりなジョークでイネスにつきまとい、「お前は人間か?」などと本音ともジョークともつかないことを言ったりします。イネスにしてみれば仕事の邪魔をされているということになります。

この過程が、(悪くとれば)長々と繰り返されます。まあ普通ならイネスはキレて父親とも絶縁でしょう。でも映画の中のイネスは、仕事上のパーティーにも父親を連れて行ったり、かつらと入れ歯でトニ・エルドマンに変身(?)して現れる父親に怒りもせず流れに任せたりします。

このイネスの心情が不思議でもあり、この映画の持ち味でもあり、またある意味現在のEUの中のドイツを象徴していると言えなくもありません。

結局最後は、これまた何やらはっきりしないまま、亡くなったおばあちゃんの葬式に戻ったイネスの口から同業種の他社に移ったと転職したことが語られるということになります。

ということで、誰がどうみても、これをドラマ化するとすれば、人間としてのゆとりもない仕事だけの生活に埋没しているイネスを父親が嫌がられながらも持ち前のジョークで改心させ人間性を取り戻させハッピーエンドとなる物語をイメージすると思います。

ところが、この映画はそうはなりません。

もしこの父娘に、仕事一途、グローバリズム、非人間性などなど「対」ゆとり、反グローバリズム、人間性などなどといった対立軸が反映されているとするならば、この映画はそのどちらにも組みしていません。

結論から言えば、ヴィンフリートに希望ある未来が反映されているわけでもなく、またイネスにも今の道を突き進んで一体何があるのか見えているわけではありません。

ラスト近く、上司にチームの士気が落ちていると言われてイネスが自宅でパーティーを開くシーンが象徴的で実に面白いです。

客を待つイネスが(かなり象徴的な)タイトなワンピースにピンヒールに着替えるのですが、たまったイライラのせいでうまく着付けられずいる時に玄関ベルが鳴ります。その時イネスがどうしたかといいますと、すべて脱ぎ捨てて裸で客を迎え入れるのです。

そして言います。「今日は皆が親密になれるよう全裸パーティーよ」と。

更に象徴的に続きます。最初に訪れた同年代の女性は脱ぐのは絶対イヤと帰ってしまいます。次に訪れた上司の男性は驚きながら玄関先で帰っていきます。イネスの評価を気にする部下の女性は(多分上司に聞いて)裸でやってきます。(およそ展開から読めるのですが)先程の上司が、一杯引っ掛けてきたと全裸で再度やってきます。

これだけではありません。さらにその全裸パーティーに何とも意味深な、引用した公式サイトの画像にある「クケリ」というブルガリアの伝統的な毛むくじゃらの精霊の着ぐるみを着たヴィンフリートが登場するのです。

はっきり言って、これ意味が分かりませんね。

この映画はそういうことです。何も語っていないのです。ただ、今のドイツの、ルーマニアの、ヨーロッパの、そして世界が置かれている現状をそのままに描いているだけなのです。

イネスの生き方を誰も否定できません。かと言ってこれが正しいとも幸せへの道とも確信がもてません。ただ、迷いはあっても止めることが出来ないのです。

イネスの裸の苛立ち、毛むくじゃらの仮面をかぶった父親との抱擁、そして転職はしたものの結局同じような仕事を続けるしかないのです。

おばあちゃんの葬儀でのラストシーン、父ヴィンフリートから渡されたトニ・エルドマンへの変身グッズである入れ歯を、自ら入れてみたり、はずしてみたりと、持て余す風に物憂げにひとり佇むカットは何ともやりきれなくも秀逸です。

オマケです。

男性から見れば、これは女性じゃなければ撮れないなというシーンがありました。

全裸パーティーに至るワンピースのシーンもそのひとつですが、イネスが付き合っている同僚男性とのホテルでのデートシーン、セックスに気が乗らないイネスが男性に、自分ひとりでやってその精液をルームサービスしたオードブルに命中させたらそれを食べるわというのです。

で、実際に男は自慰でオードブルに精液をかけ、イネスはそれを食べるのですが、さすがにこれまで見たこともない新鮮なシーンでした(笑)。

このシーン、一貫してイネスが場の流れをリードして描かれています。男性監督の映画で仮に女性主導のシーンがあったにしてもこうは撮れないだろうなあと、ある種感動を持って見ていました。

もうひとつオマケです。

イネスたちの暮らしぶりとは異なったブルガリアの現状なのでしょう、イネスがホテルの上階から見る貧民街的な風景、そしてヴィンフリートがイネスの仕事がらみで訪れた労働現場でブルガリア人と交流するシーン、これをどういうつもりで入れているのかまでは分かりません。

ただ、先日見た「トトとふたりの姉」、同じくブカレストの話ですが、このふたつの映画を見ただけでも、一体どこに出口はあるのだと叫びたくなるようなこの世界です。

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