ディーパンの闘い/ジャック・オディアール監督

残念ながら「預言者」的カタルシスに到達できず。

昨年2015年のカンヌ、パルム・ドールです。

受賞時、あまり芳しくない、つまりパルム・ドールに相応しくないといった話がネット上に上がっていましたが、どうなんでしょうか?

まあ相応しい相応しくないということ自体にあまり意味がありませんので、要は自分が楽しめるかどうか、自分の眼を信頼するしかないのですが、最近では映画祭に出品しただけでも宣伝に使われますので、受賞ともなれば、即興行収入に影響しそうですね。

主人公は、内戦下のスリランカを逃れ、フランスに入国するため、赤の他人の女と少女とともに“家族”を装う元兵士ディーパン。辛うじて難民審査を通り抜けた3人は、パリ郊外の集合団地の一室に腰を落ち着ける。彼らがささやかな幸せに手を伸ばした矢先、新たな暴力が襲いかかる。戦いを捨てたディーパンだったが、愛のため、家族のために闘いの階段を昇ってゆく──。(公式サイト

やはり、平日の昼間にしてはよく入っていたと思います。いや、違うかな? むしろ平日の昼間だからよく入っていたのかもしれませんね。こうした映画は、仕事帰りに見る人より、昼間でも時間が自由になる高齢者の映画ファンの興味をそそりそうです。

ただ、映画は、残念ながら、何とも焦点の定まらないものでした。

と言いますのは、基本的ストーリーはとても興味深いものなんですが、その肝となるべきいくつかのことが画の中からそれと感じられず、何ともはっきりしないんです。

ディーパン(アントニーターサン・ジェスターサン)は、スリランカの反政府勢力タミル・イーラム解放の虎(LTTE)の兵士だった過去を持ち、自身の暴力行為の記憶が、映画の後半、麻薬売人たちとの争いの中で甦るのですが、そもそも内戦の中でディーパンがどういう位置にいたのか、どんなことをしたのか、あの冒頭のシーンではよく分かりません。スリランカでの苦悩が見えてこなければ、フランスでの苦悩にもリアリティが生まれてきません。

一方の、売人たちのリーダー(かな?)ブラヒム(ヴァンサン・ロティエ)も何やら影を背負った人物として描かれており、ディーパンの妻ヤリニ(カレアスワリ・スリニバサン)との関係で重要な扱いをされているのですが、このブラヒムがあまり生きた存在になっていません。後半、ディーパンがブラヒムたち売人と対立するのですが、ブラヒムだけではなく売人グループの存在自体も曖昧すぎて、対立が不明確で、ディーパンの取る行為に説得力がありません。

そして、ディーパンの擬似家族、妻ヤリニと娘イラヤル(カラウタヤニ・ヴィナシタンビ)のキャラクターもはっきりしません。何を置いても、二人が一貫して生き生きしており「畏れ」が感じられません。必要なのは、内戦の中を生き抜いてきた「強さ」であって、性格的な気丈さではありません。

ラストシーンを見ますと、「預言者」に似た映画的カタルシスをねらった映画なのだと思いますが、そこへ行くまでの悲劇的あるいは抑圧的事象の積み重ねに失敗しています。