メランコリア/ラース・フォン・トリアー監督

たとえ世界に邪悪なものが満ちていようと、あるいは憂鬱が人を押しつぶさんばかりに巨大になろうと、こんな世界は「無」となってしまえ!ってメランコリックに思い悩むのは、ちょっとばかり思い上がりってもんですよ、ラース。

随分昔に読んだ…、何だっただろう? 吉本隆明の詩を思い出しました。

記憶を頼りに調べてみたら、

ぼくが真実を口にするとほとんど全世界を凍らせるだろうという妄想によって
ぼくは廃人であるそうだ

という一節が有名な「廃人の歌」でした。

多分、この映画だけではなく、カンヌでの発言や前作「アンチクライスト」など、このところのラース・フォン・トリアー監督の言動全体から浮かんだのだとは思いますが、いずれにしろ、彼に真実(らしきもの)が見えているかどうかは分かりませんが、冒頭の8分間、スローモーションで描かれる数々のシーンの美しさは異常です。まさに全世界が凍りついてしまったようにも見えます。

下の動画見てみてください。

憂鬱そうな女のアップと舞い落ちる鳥たち、左右から影が落ちる美しき庭園、ブリューゲルの「雪の中の狩人」に被る黒い影、地球とメランコリア、子どもを抱きかかえ逃げる女とその足跡、大地に飲み込まれるように崩れ落ちる馬、緑の中で両手を広げ立ちすくむ女と宙を舞う蝶?綿毛?、ふたつの月をバックに横一列に並び歩いてくるふたりの女と子ども、再び地球とメランコリア、宙に手をかざす女、そして手の先からほとばしる光、手足を絡め取るように巻き付いた樹木の根?を引きずりながら駆けるウェディングドレスの女、地球に近づくメランコリア、流れる水に身をまかせ横たわるウェディングドレスの女、森の中で木を削る子どもと女、地球に衝突するメランコリア。

それに続く第1部、ジャスティン(キルステン・ダンスト)の結婚披露宴、延々と続くくだらない宴は憂鬱なるものの象徴か? 相当長いこのシーンは、手持ちカメラでぶれにぶれまくり、見るものをいらいらさせるでしょう。見ようによってはかなり退屈ですし、どの人物も感情移入など完全に拒否していますし、全てが理解不能の混乱にも見えます。しかし、なぜか全編どことなく虚無感が漂っています。

そして第2部、精神的混乱はジャスティンから姉のクレア(シャルロット・ゲンズブール)に移っています。理由はメランコリアが地球に衝突するかも知れないという恐怖です。いや、正確に言うと、そういった現実的な恐怖ではなく、描かれているのは「無」への恐怖だと思います。確かジャスティンだったと思いますが、地球以外には生命は存在しない、地球がなくなれば全て無となるといったようなセリフがあったと思います。実際に、登場人物以外全て消え去ってしまったかのような静寂が感じられます。

多分、惑星「メランコリア」は、憂鬱の根源たる「虚無」そのものということなのでしょう。

ただ、第1部ではあれだけ混乱していたジャスティンですが、なぜか落ち着いたもので、どこか悟ったような態度を示すようになっています。森の中で全裸になり、メランコリアの光を浴びるようなシーンがあったと思いますが、メランコリアと同化したということでしょうか。そこから来るのかも知れませんが、第2部には、不思議と、逆に希望のような何か光のようなものが感じられます。

そして、ラストシーン、10秒か15秒くらいでしょうか、これまで見たその瞬間の映像としては、最も美しい(というのも変ですが)ものでした。

実は、ラース・フォン・トリアー監督、私にとって、出来がどうであれ許す監督のひとりなのです。ですから、批判でも何でもないのですが、考えてみれば、この憂鬱論議みたいなものは、たとえこの映画の通り、世界に邪悪なものが満ちていようと、あるいは憂鬱が人を押しつぶさんばかりに巨大になろうと、こんな世界は「無」となってしまえ!ってメランコリックに思い悩むのは、ちょっとばかり思い上がりってもんですよ、ラース、と言いたいですね(笑)。