異人たち

ハリーはアダム…

前々作の「さざなみ」がもうひとつでしたので、次の「荒野にて」をスルーしたところ、後に DVD で見てみましたらとてもよかったというアンドリュー・ヘイ監督です。この「異人たち」は山田太一さんの長編小説「異人たちとの夏」が原作です。

異人たち / 監督:アンドリュー・ヘイ

映画という表現形態が生きる題材…

「異人たちとの夏」も読んでいませんし、大林宣彦版「異人たちの夏」も見ていませんのでこの映画に限ったレビューです。

アダム(アンドリュー・スコット)はロンドンの高層住宅にひとりで暮らしています。シナリオライターであり、現在執筆しているのは両親の話です。

その高層住宅には、アダムともうひとりハリー(ポール・メスカル)のふたりだけしか住んでいないという設定です。さらにアダムが12歳のときに死に別れた両親と現在のアダムのまま遭遇するという話です。ですので映画そのものが現実感といったものとは次元の異なった印象です。

その点では映画という表現形態が生きる題材だと思います。

ですので、両親が幽霊であるとか、ハリーが両親を連れてきたとか、ハリーも非存在であるとかを考えてもあまり意味がなく、結局、アダムが子どもの頃から抱えてきた心の傷が語られていくという話ということだと思います。

アダム、両親と遭遇する…

高層アパートメントからの風景、かすかに明るいところがあります。次第にオレンジがかってきます。早朝の朝焼けです。窓ガラスにアダムの顔が写ります。憂鬱そうです。

美しい始まり方ですが、このアダム、最後まで重苦しい表情のままいきます。そういう映画です。

非常ベルが鳴り響きます。アダムが外へ出てアパートメントを見上げますとひと部屋だけ灯りがついており男が見下ろしています。部屋に戻りますとその男が訪ねてきます。ひとりで寂しいから一緒に飲まないかと言います。アダムは断ります。

シナリオの執筆に行き詰まっているのかもしれません。アダムは子どもの頃の物を引っ張り出し始めます。当時住んでいた家の写真を見ているうちに矢も盾もたまらなくなったのか列車に乗りその家を訪ねます。

そこにはアダムが12歳の頃の両親がいます。ふたりは40歳のアダムをそのまま自然に受け入れます。大人になったね、あれからどうやって暮らしていたの、といった具合です。

この両親との遭遇でアダムの心の傷が明らかになっていくのが映画の軸になっています。

アダムの心の傷…

二度目に訪ねたときの母との会話。

母は、指輪をしていないから結婚していないのね、付き合っている人はいないのなどと尋ねます。アダムは女性には興味がないんだと答えます。

母は、一瞬の間をおいて、ああそうなのと答えます。しかし、明らかに動揺しています。

次に訪ねたときの父との会話。

父は母から聞いているようです。母さんはああだから気にするな、俺は驚かないよ、お前はいつも部屋で泣いていたなあ、いじめられていたのかと言います。アダムが、Girl と揶揄されたり、便器に顔をつっこまれたりした、僕が泣いている時なぜ入ってきてくれなかったのと尋ねます。父は、なぜ言わなかったと返します。アダムが先に答えてよと言いますと、父は、自分がお前の同級生だったら一緒にいじめていたと答えます。アダムは、そう思ったから言わなかったと返します。

しばらくして、父はすまなかった、抱きしめていいかと言います。アダムは父親の胸に顔をうずめ、父親はアダムをしっかりと抱きしめます。

ハリーは、アダム…

最初に両親と遭遇したその日、再びハリーと出会います。アダムは、すまなかった、今度飲もうと言います。

そして、後日、ハリーが訪ねてきます。ハリーは、あんた、クィアだよねと直接的です。アダムはしばらく間をおいた後、ゲイだと答えます。

ハリーは言葉がかなり直接的です。キスしないかとか、このシーンではありませんが入れていいかとか、自分がうけでもいいとかとストレートな表現をしてきます。

原作の「異人たちの夏」では相手は女性とのことです。アンドリュー・ヘイ監督は自身がゲイであることをオープンにしている方ですので、こうした設定になっているのかと思いますが、おそらく原作とはテーマが随分違ったものになっているのではないかと思います。

この映画では、子どもの頃から自らのセクシュアリティにひとり悩み、両親にも理解されなく、同級生からもいじめられ、なおかつ12歳にして両親を失い、孤独と同居するしかなく生きてきたアダムの心の傷が際立っています。

映画のラストではハリー自体もこの世の人物ではなく、おそらくアダムが見るアダム自身だとは思いますが、孤独のうちに死んでいった存在であることが明かされます。

と考えれば、アダムは両親との間にあったわだかまりともいえる心の傷は多少なりとも癒えたとしても、結局のところ、孤独のまま、自らの未来がハリーであることを予感しながら生きることを耐え忍んでいるように見えるのです。