母という名の女

母は女であるが、女は母とは限らない…。本当にこの監督の映画にはいつもびっくりさせられます。

なかなか先が読めません。

公式サイト / 監督:ミシェル・フランコ

ミシェル・フランコ監督、現在、39歳か40歳くらいのメキシコの監督です。ワールドレベルでの活躍はここ10年くらいで、カンヌをターゲットにしているのでしょう、全て何らかの形で上映され、そのうち、「父の秘密」が「ある視点グランプリ」、「或る終焉」が「脚本賞」、そしてこの「母という名の女」が「ある視点審査員賞」を受賞しています。

先が読めない理由は映画の作りにあります。

われわれ人間は(と大層ですが…)、普通、物事が動いたり変化したりするには何らかの原因や理由があると考えます。ところが、この監督はそうした何かコトを動かすもの、人間の行動で言えば感情の発露のようなものをほとんど描きません。

それは、物事が見た目に淡々と進んでいくということなんですが、それを意図的にやっているのか、あるいは手法なのか、たとえば撮影技法で言えば、ほとんどアップを使いませんし、流行りの(かどうかはわかりませんが)どアップや舐めるようなカメラワークは使わず、ほとんどフィクスで撮っています。

編集もかなり大胆です。スパッスパッと切ってどんどん先へ進みますし、なぜそうなのかといった説明的なシーンはほとんどありません。

これが計算されたことなのか非常に興味のあるところで、こうした手法は一歩間違いますと、映画がどこに向かっているのか分からず、見る者を疲れさせたり飽きさせたりしますが、この監督の映画はそのぎりぎりのところで作られている感じがします。

そして、最後にびっくりさせられます(笑)。

こういう話です。

妹バレリア(アナ・バレリア・ベセリル)17歳と姉クララ(ホアナ・ラレキ)は、二人だけで海辺のリゾート地に暮らしています。バレリアは妊娠しており、相手のマテオ(エンリケ・アリソン)も同年代で定職を持っていません。ただ二人で育てていこうとの意志はあるようです。

姉のクララはやや肥満体型でほとんど感情を表にあらわすことがなく、ぼんやりした印象に見えます。町の印刷屋で働いているようです。映画内の会話からしますと、姉妹の父親は違っているようです。

母親アブリル(エマ・スアレス)がどこからかやってきます。おそらくメキシコシティだと思いますが、例によって、そうしたことは全く説明されません。突然荷物を持ってやってきます。

この家族(と言っていいかどうか…)、かなり裕福なようで、リゾート地の住まいは別荘と言っていましたし、アブリルもどこかに住まいがあるわけで、さらにバレリアの父親は、今はかなり若い(何歳違いとか言っていた)女性と一緒に暮らし、幼い二人の子供がいて、ハウスキーパーもいるという生活環境です。

こうした背景で物語が進んでいきます。

バレリアに女の子カレンが生まれます。このあたりの展開は早いです。バレリアとマテオには、その意志はあるのでしょうが、若さでしょうか、子育てへの覚悟がやや足りなく、アブリルが何かと世話を焼きます。

このあたりのアブリルの振る舞いは、母親としてはまあ普通でしょうと見えるのですが、その後、ええ~!!というような、とんでもないことをします。

マテオの父親(この俳優さん「父の秘密」のエルナン・メンドーサさんでした)に何やらサインを求めています。何をしているのだろうと思いましたら、何と!カレンの親権を放棄させ養子に出すことを承諾させていたのです。もちろん、バレリアとマテオにはひとことも言わずにです。

で、このアブリルの行為が実に計画的で、元夫であるバレリアの父親に(おそらくお金の)援助を求めに行った際に、ハウスキーパーにカレンを預けることを約束させていたようです。こうしたことも、そのシーンの中では描かれませんので、後々、ああそういうことかとわかるようにつくられています。

少し話がそれますが、元夫を訪ねるシーン、これもすごかったですね。淡々と進んでいきますのでさらっと流れてしまいますが、この監督の映画は、よくよく考えるとすごいなあと思うシーンが多いです。

アブリルが元夫の住まいを訪ね、門扉の外から元夫に呼びかけます。元夫は若い妻と子供二人に中に入っていろと命じ、門扉までやってきます。アブリルがバレリアの援助をしてあげてと言いますと、バレリア本人が言ってくるのが筋だと言い、いきなり門扉を次々に閉ざし中が見えないようにしてしまいます。

この家はアブリルとバレリアも一緒に暮らしていた住まいということでしょうから、なんと言うんでしょう、こういう冷たさというか、素っ気なさというか、この監督のなのか、あるいは文化的なものなのか、こうしたところがすごく新鮮に感じられます。

その後、アブリルは外でハウスキーパーが出てくるのを待ち受けて、昔話をしつつ家に送り、カレンを預ける依頼をするわけですが、もちろんこのシーンではそんなことをしているとはまるでわかりません。

もうひとつ思い出しました。

マテオは姉妹の家に同居するのですが、ある時、突然車が横付けにされて玄関先に荷物がどんどん降ろされます。あれ、マテオの父親がマテオの荷物を運んできて下ろしていったんですね。そのシーンにマテオのマの字も出てこなかったと思います。

さらに話が飛びますが、私、この映画を見ながら「万引き家族」のことがふと頭に浮かびました。あの映画は、「血」であれ「情」であれ、むちゃくちゃ濃密な人間関係ですよね。かたやこちらは、良くも悪くも「個」の関係です。文化なのか、個人の感覚なのか何でしょうね?

この関連で、先にラストシーンについて書いておきますと、あれ、多分、「血」や「情」じゃないですよ。

話はどこまで行きましたっけ? ああ、そうそう、カレンをハウスキーパーに預けたところまででした。まだ、半分も来ていないです(笑)。

バレリアの娘カレンへの思いがどうなのかは定かではありませんが、引き裂かれれば当然喪失感で心に穴が空いたようになり、マテオともしっくり来なくなっていきます。そこにアブリルがつけ込みます。マテオだけをカレンに会わせます。

すべて計算ずくです。マテオをハウスキーパーの家に連れていきカレンに会わせ、今日は泊まっていくかと誘い、肉体関係を持ちます。

そしてその後、アブリルとマテオはリゾート地から姿を消し、メキシコシティーで新婚夫婦のように楽しく暮らしましたとさ、とはいきませんが、マテオはその場の空気に流されやすく、優柔不断で決断力がない若者として描かれていますので、まあアブリルの言うなりという感じです。

で、どう展開するのかと思いましたら、うまいもんですね。ある日、突然、姉妹の元に不動産屋が室内の写真を撮りたいと訪ねてきます。

アブリルが別荘を売りに出したのです。すごい展開です。

姉妹はアブリルの居場所を知りませんので、バレリアが不動産会社に自分は娘だからと母親の連絡先を尋ねますが、個人情報は教えてくれません。

ここに来て、バレリアが俄然大人になります。クララは相変わらずぼんやりしてい(るように見え)ます。

実は私、このあたりで、このクララが最後に何かやらかすことを予想していました。たとえば、アブリルを殺すところまではいかなくても、何かするとか、そういう結末をもってくる監督ですし、びっくりさせるなら、何もしなさそうなクララだな、という予想です(笑)。

全く外れてはいたんですが、このクララの存在、なにかすごい意味深ですよね。

また話がそれました(笑)。

バレリアは、それまでのだらだら感がどこへいったのかというくらい行動的になります。頭がいいですね(って、脚本がですが…)、アブリルが別荘を売りに出した支店を訪ね、そこでアブリルの連絡先を尋ねます。残念ながら教えてはもらえませんが、やさしい店員が、近くのヨガ教室でよく見かけるよと声を掛けてくれます。これは教えてもいいのかな? とは思いますが、とにかく、バレリアが、そのあたりを聞きまわりカフェで休んでいますと、通りをアブリルとマテオが通り過ぎます。

住まいまで後をつけ、通りで待っていますと、しばらくして二人がカレンを乗せて車で出てきます。「ママ! ママ!」と叫んで追いかけますが、止まるわけはありません。

アブリルは猛スピードで車を走らせます。このシーンのカメラは、パニック気味のアブリルをとらえるだけでマテオはワンカットもなく声だけだったと思います。こういう作りもよく考えられています。

で、パニクったアブリルは、マテオに「あなたが喋ったのね!?」と興奮し、無理やり車から下ろしてしまいます。

シーンが変わり、クララを連れてカフェに入ったアブリルは、店員にベビーチェアを求め、そこにクララを座らせ、立ち去ってしまいます。その後、アブリルは出てきません。

これもすごいですね。普通、この展開は思いつかないでしょう。

ラストです。

カレンは保護されますが、バレリアは、(このあたりよくわからないけれど)マテオの同意がなければ渡せないと言われ、どうやってマテオを見つけたか忘れてしまいましたが、なんとかマテオとともにカレンを引き取り空港に向かいます。

マテオは謝っていたかな? 当然のことながらしゅんとしています。バレリアは、クララもまた働き始めたし一緒に暮らしていこうと話します。

飛行機までの待ち時間、バレリアは、カレンを抱き、マテオを残して、飲み物を買いに行きます。

がしかし、バレリアが向かったのはタクシー乗り場、どこまで?と尋ねる運転手に、バレリアは焦りながら「とにかく出して」と言うのです。

焦りと達成感の入り混じったバレリアの笑顔で終わります。そこに喜びがあったかどうかはわかりません。

で、この映画、「母という名の女」のタイトルもそうですが、「母性などない。あるのは欲望だけー。隣にいるのは母ではなく、女という怪物だった…。」というコピーで宣伝されており、どうしても、女性を「母性」や「欲望」といったステレオタイプな視点で見るように誘導されてしまいます。

本当にこの映画ってそうなんですかね?

じゃあ何だ? と言われても、よくわからない人物を描いているとしか答えようがないのですが(笑)、ミシェル・フランコ監督はそういう映画を撮る監督だと思いますし、よくわからないものを使い古した言葉で理解しても意味のないことですし、むしろ新しい言葉(価値観)で語ることを心がける必要があるような気がします。

バレリアに見つかり、猛スピードで車を走らせ、マテオを無理やり車から降ろし、カフェに入り、カレンを置き去りにする、この一連の行為は「欲望」なんかでは説明がつかないでしょう。

このシーンですね。