そんなには褒めないよ。映画評

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「泳ぎすぎた夜」たからくんは、演技(非日常)と非演技(日常)のボーダーライン上にいるようだ

予告編の冒頭に引用されている谷川俊太郎さんのコメント

人間ももともとはけものと同じ生きものだった。
言葉がないと、意味の仮面がはがれて、
いのちのナマの姿が見えてくる。

が、この映画のある一面をとらえていると思います。

それは、逆にいえば、この映画が、大人になることとは世界を言葉によって意味づけしていくことであり、そして、そのことによって何かを失っていくことかも知れないと教えてくれているということです。

 

監督:ダミアン・マニヴェル、五十嵐耕平

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公式サイト

 

上の画像の古川鳳羅(こがわ たから)くんは、撮影当時6歳の小学校一年生、この映画の主役です。

 

そのたからくんの冬の一日をおっている映画で、台詞(言葉)はありません。映画の舞台(ロケ地)は弘前市、たからくんはその隣町平川市で両親と姉とともに暮らしているそうです。両親も姉もそのまま家族として登場します。

 

ドキュメンタリーというわけではありません。両親や姉には演じているという意識はあると思いますが、たからくんはおそらくボーダーライン上にいる感じじゃないかと思います。

 

暗闇に降りしきる雪のカットから始まります。やがてそれは家の中の一階から二階を見上げた先の窓ごしの風景だとわかります。

家の中は寝静まっていますが、男が台所のほのかな明かりのもとたばこを吸っています。たばこをもみ消した男は、なぜか(意味はないだろうけど)再びタバコをくわえ、車ででかけていきます。

男はその家のお父さん、後にそのカットがあり魚市場で働いていることがわかります。ですから、ほぼ真夜中、2時くらいに出かけていくということでしょう。

 

男の子、たからくんが目を覚まします。眠れなくなってしまったたからくんはごろごろしながらデジカメで写真をとったり、画用紙に魚を絵を書いたりしています。

そのままうつらうつらで朝を迎えたのでしょう。学校へ行く段になっても寝ぼけ眼、お姉さんが抱えながら防寒パンツ(かな?)を履かせたりします。

 

このあたりで、その間合いから、ああこの映画、台詞なしでやろうとしているんだとわかってきます。台詞がないと不自然になりそうな場面はすべて排除しているようです。上のシーンでも、普通なら「たから、起きなさい」なんて台詞が出てきそうですが、寝ぼけ眼どころか、ほとんど眠っているようにだらんとさせています。

 

で、たからくん、学校へ向かうのですが、なぜか校門前で突然向きを変えてしまいます。しばらくは分かりませんでしたが、どうやらお父さんの魚市場へ向かおうとしているようです。

 

その道中が描かれている映画です。なにか事件や事故が起きるわけではなく、たからくんが雪の中をとぼとぼ歩き、あるいは突然走り、ある時犬に吠えられれば吠え返し、そしてまた、道路を渡るのに難儀したり、無人駅で電車を待ったり、電車の窓から景色を見たり、やっと魚市場にたどり着いてみれば、すでに市場には人はいなく、何を思ったか、駐車場の車のドアを片っ端から開けようと試み、たまたま開いた車に乗り込んで寝てしまうのです。

 

画的にわかりやすく言えば「はじめてのおつかい」のようなとも言えますが、もちろんこの映画はシナリオにそって演出されています。「おつかい」だって演出されてはいますが、あれはおそらく編集による演出以上のことは難しいでしょう。

 

この映画では、たとえば犬のシーンではカメラに向かって吠えてみてと撮っているわけですし、カーブミラーに雪玉を投げてみてなどとシーンごとに撮っているわけで、その意味で、最初に書いたようにたからくんは、演技(非日常)と非演技(日常)のボーダーライン上にいるのだと思います。

 

夜中に目を覚まして眠れなくなったたからくんですから、車に入り込んでしまえば眠ってしまいます。たまたまなのか、市場の駐車場だから当然なのか、車の持ち主はたからくんが誰かわかったのでしょう、家まで送り届けてくれます。

 

さすがにここは多少の台詞は入れるのかなと見ていましたが、あくまで人が接触する場面はカットして台詞なしを貫き、たからくんは無事家に戻され、そのまま寝てしまいました。

 

たからくんの書いた魚の絵はお母さん(だったと思う)によって冷蔵庫に留められ、そして次の日、お父さんはそれを見て、いつものようにたばこを吸い、仕事に向かうのでした。

 

ヴィヴァルディ「四季」より「春」が流れます。

 

この映画、それぞれのシーンのたからくんの行動やふるまいは演技ではなく自然なものだとしても、それが即6歳の子どもの世界や子どもの目線をとらえているわけではなく、全体としては、大人であるつくり手の物語が子どもによって演じられているわけで、それはエンディングに「春」を使うこともそのひとつの現われでしょうし、そのことを冒頭の谷川俊太郎さんの詩の言葉をかりて言うとすれば、

 

言葉による意味の仮面ははがれても、画による新たな意味が生まれ

 

そう簡単には、ナマのいのちは姿を現さないのではないかと思います。

 

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