フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法

子役ブルックリンさん(ちゃん)の行く末が気になる…

こういう映画を見て必ず思うことは、「この子の将来は大丈夫だろうか?」ということです。

この子というのは映画の中のムーニーではありません。ムーニーをやっている子役のブルックリン・キンバリー・プリンスさんのことで、こういう映画というのは、家庭環境がむちゃくちゃ悪く、本人も母親のまねをして Fword を連発するわ、中指は立てるわの役を演じさせられる映画ということで、他の映画でも、虐待される役であるとか、それも性的虐待であるとか、さすがにその場合、実際演じることはありませんが、そうした映画で、たとえそれが演技であっても疑似体験するわけですから、幼い子供にどういう影響を及ぼすかを考えなくてもいいのだろうかということです。

監督:ショーン・ベイカー

公式サイト

この映画のムーニーは6歳、母親ヘイリー(ブリア・ヴィネイト)はシングルマザーで職なし、勤労意欲もあまりなさそうでモーテル住まい、育児や教育に関心があるとも思えず、ネグレクトではありませんがムーニーへの愛も身勝手なものに見えます。

実際どうなのかは知りませんが、アメリカではこうしたモーテル住まいの、いわゆる貧困層が結構いると耳にしたりしますので、この映画のシチュエーションはそういうことなのでしょう。

確かに、ムーニーが引っ越してきた新しい友達にモーテルを案内するシーンがありましたが、ここは誰々、ここはこんな人と、ひとつも記憶していませんが(笑)、それらしきことを言っていました。

ムーニーには仲のいい同年代の男友達スクーティがいます。いつもいっしょに行動しているようで、映画は二人(三人だったかな?)がモーテルの2階から駐車場の車めがけてつばを吐く、それも咎められても止めないというシーンから始まります。

そうした悪質ないたずらシーンが頻繁に出てきます。映画とはいえ、うんざりします。とにかく悪ガキなんです。特にムーニーの嬉々とした表情は演技とは思えないくらいなんです。

ですから、余計心配になるのですが、こういう演技が子役ブルックリンさん(ちゃん)の実生活に影響を及ぼさないだろうかということです。

話はそれますが、社会って、それまで皆が普通にやっていたことがある時やっちゃいけないことになるってことがいっぱいありますよね。タバコでもそうですし、今問題になっているセクハラということでも、少し前までは女性に「結婚していないの?」とか「まだひとり?」なんて平気で言っていたわけで、そのことで人を傷つけていることに気づけなかったわけです。

ですから、逆に言えば、今気づかずにやっていることでも、10年後、20年後から振り返ればとんでもないことをやっている可能性があるということで、あるいは、子どもへのこうした演技の強要(に当たると思う)もそうした類のものではないかと思うことがあります。

じゃあ、こうした子供の悲劇を映画にすることができなくなるじゃないかという意見もありそうですが、ただ少なくとも、その映画がなにをやろうとし、作りての立ち位置がどこにあるかということは問われることにはなるとは思います。

率直に言って、この映画には子どもたちを見る眼差しに真面目さといいますか、意識? 感情? どんな言葉が的確は難しいのですが、いずれにしても、子どもたちがこの環境に置かれていることはよくないと、いやいや、いいと思っているとは思いませんが、よくないという視点がなければ同じことでしょう。

公式サイトには、「登場人物たちに優しく寄り添いながら」なんて映画的美辞麗句が並んでいますが、映画はむしろ母親ヘイリーの視点で撮られていますし、仮に優しく寄り添っているとみえるのであれば、それはモーテルの支配人として、ボビー(ウィレム・デフォー)という懐が深く、うちに秘めた思いやりがあり、ムーニーをあたたかく見守る人物を置いているからそう見えるだけだと思います。

母親ヘイリーにどんな過去があり、なぜシングルマザーのままモーテル暮らしをすることになったか、映画の中では理由は語られませんが、仮にそれ相応の理由があったとしても、今の環境に子どもを置いている、その第一義的責任はヘイリーにあるでしょう。映画にはその視点は感じられません。人間どう生きようと勝手ですから、ヘイリーがどんな生き方をしようと、そういう人物を映画にしたいのなら、それはそれでいいとは思いますが、そのために、あるいは子供によくない影響を及ぼすかもしれない行為をさせることは許されないでしょう。

この映画は、ムーニーを撮っているようにみえて、本当のところはヘイリー(たち)を撮っています。

ヘイリーは、時に(おそらく)安く買い付けた香水を観光客に高く売りつけて稼いだりしていますが、お金に困れば売春で稼ぐこともします。それもムーニーを浴室に閉じ込めてです。さらに、その客から盗んだディズニーランドのリストバンド(よくわからないけど入場券?)を売りさばいたりします。それもムーニーを連れてです。

この映画がやろうとしているのは、「マジック・キャッスル」というモーテルで暮らす、社会から置き去りにされている人々を撮るということ以上にはなく、そこには、良くも悪くも、ムーニーへの思いを込めた眼差しがあるわけではなく、単にヘイリーとともに主役として映画の軸として扱っているだけです。

その視点は、前作の iPhone だけで撮ったという「タンジェリン」でもそうであり、ラストのオチのつけ方もほぼ同じパターンです。

この映画のオチは、誰だったか、支配人のボビーだったかが、さすがにこのままではまずいと思い、児童家庭局(でいいのかな?)に連絡し、担当者がやってきて、ヘイリーへの説得を試みます。ムーニーは異変を感じつつ、友達にお別れをと担当者に連れられ、友達とところへ行き、涙を流します。友達はなにを思ったか、ムーニーの手を取って走り出します。

カメラは二人を追いかけます。そして二人はマジック・キングダムへ。二人は人混みをぬって走り抜けます。そして目の前にはシンデレラ城が…。

そんな安易なオチですましていいとは思えません。

タンジェリン(字幕版)

タンジェリン(字幕版)