モリーズ・ゲーム

ギャンブル映画にみせたフロイト心理学的父娘関係の映画か?

映画のつくられ方って、もちろんドラマやドキュメンタリーといった違いもありますので様々だとは思いますが、(広い意味での)シナリオがあって撮影をして編集をして完成という基本をはずしたものはないでしょう。中には全てひとりでやってしまう人もいるようですが、シナリオの良し悪しは映画の出来に大きく影響するものだと思います。

で、この「モリーズ・ゲーム」は、私が見ている映画で言えば「ソーシャル・ネットワーク」のシナリオでアカデミー脚色賞を受賞しているアーロン・ソーキンさんが自らシナリオを書き、初めて監督したという映画です。

監督:アーロン・ソーキン

公式サイト

この映画を見ますと、上にあげた「ソーシャル・ネットワーク」の記事に書いた導入部分の面白さは、あるいはシナリオの面白さだったのかもしれないと思います。

どういうことかと言いますと、自らシナリオを書き、それにもとづき画を撮るわけですから、アーロン・ソーキン監督には、シナリオ段階ですでに頭の中で映像も編集も出来上がっていると考えられ、逆に言えば、この映画はそのままシナリオを読んでいると考えてもいいわけで、そこから想像するに、「ソーシャル・ネットワーク」の導入部分も、思い返せば、そのシナリオが見えてくるようなつくりであったということです。

テンポと展開がうまいんですよ。引き込まれます。

この映画は、詳細は公式サイトなど他で読んでいただくとして省略しますが、モリー・ブルームさんという方の回顧録が原作となっており、その回顧録(をシナリオに落としたもの)が全編通してかなり速い(と感じる)語りで入れられ、映画自体のスピード感を演出しています。

ナレーションではなく、あえて「語り」としたのは、ニュアンスとしては回顧録を読んでいるような印象ですので、ナレーションといったニュアンスとはまたちょっと違った感じでした。

映画内の時間軸は3つあり、ひとつは違法賭博の罪で逮捕された後の展開、これが現在ということになり映画の2割くらい(あくまで印象として)、そして、語りを使ってそこから振り返る過去のひとつ、セレブ相手のポーカールームを運営する時期の波乱万丈紆余曲折などの本人の浮き沈みが映画の7割くらい、そして、残りの1割くらいがモーグル選手時代の主に父娘の対立と挫折を描くという構成になっています。

この構成が実にうまく、3つの時間軸が違和感なく交錯します。

で、最初に言っておきますと、確かにその構成力にはかなり圧倒されますが、中程で飽きます(笑 & ペコリ)。

映画の見どころは、ずばり、モリーがポーカールームのオーナーとしてのし上がっていくところと、そして逮捕され裁判になるまでの、あれが司法取引というやつだと思いますが、有罪を認めるか司法取引に応じるかをめぐる弁護士とのやり取り、見どころはこの2つです。それらはかなり複雑でもあり、その細かい人間関係や駆け引きこそがこの映画の肝だと思いますが、それをストーリーで説明しても意味がありませんので省略して、というのはどういうことかと言いますと、通常我々は(私はかもしれませんが)日常、さほど複雑な会話をすることはありません。相手の裏を読み、さらに相手がその裏を読んでいるだろうと読んで、そのまた裏を読むなんてことはどう考えても小説や映画の世界であって、実際にはもっとストレートに、ムッとすれば怒りが顔に出たり、ぐっと我慢すれば、それがまた顔に出たりすると思います。しかし、この映画は、まさに小説や映画の世界にしかないことを、つまりシナリオライターが駆け引きとはこういうものだと書いたそのことが映像になっているのです。

ですので、そうしたことは、映画を見ることの楽しみのひとつであり、実際に見ることでしか感じられないことですので、ここでは、ずばり結末、いわゆるネタバレですが、そのことを書こうと思います。

まわりくどく書いていますが、ポーカールームがどうなるかとか裁判の行方がどうなるかといったことは確かにネタではありますが、仮にそれを事前に知っていてもこの映画は面白く見られます。

それらのネタはこういうことです。モリーは(映画では)全財産を FBIに没収され、ポーカールームから足を洗った後に回顧録を書き、2年後に逮捕され、結局、司法取引には応じず有罪を認めて裁判となりますが、裁判官が、さほど大した罪じゃない、よほどウォール街に巣食う奴らのほうが悪いことをやっていると(ちょっと信じられないことを)宣い、20万ドルの罰金と200時間の社会奉仕を言い渡されます。

じゃあ、それ以外のネタって何?

そんなに大したことではありません(笑 & ペコリ)

果たして、アーロン・ソーキンさんが、それをこの映画のテーマであると意識しているのか、あるいはモリーの浮き沈みや裁判をめぐる駆け引きこそをみせたいと思いつつも、その裏に流れる心理描写的な何かを軸にまとめなければ映画(物語)として成立しないと考えたからなのかはわかりませんが、映画のオチは「父娘関係」あるいは「権威と服従の関係」、フロイト的エディプス・コンプレックスの変形です。

モリー(ジェシカ・ジャスティン他)は、幼い頃から、父親ラリー(ケビン・コスナー)の権威主義的な教育とスキー指導をうけ、反抗しながらも、モーグルの選手としてオリンピック出場をも狙えるところまでいきますが、アクシデントによる負傷で選手生命が絶たれます。

その後、アルバイト先のボスがポーカールームのオーナーであったことから、その手伝いをすることでノウハウを吸収し、自らオーナーとなることに成功し、その世界でのし上がっていくわけですが、顧客となるのは金銭面で社会的に成功した男たちばかりです。

そうですね、あらためて思い返してみれば、女性客はひとりもいませんでした。女性たちは、際どい服を着て男たちに酒などをサービスしたり、セレブ(嫌な言葉…)たちが集まるパーティーへ行って客を集めてくる営業ウーマン(笑)、どういう風に集めるかといいますと、ポーカー好きの男をターゲットにして、おいしい話で誘いをかけつつ、でもモリーに聞いてみないとそこには入れないのよ、なんて(まったくもって男って馬鹿だね)プライドや虚栄心をくすぐるわけです。

アメリカでは、こうしたポーカールーム自体は違法ではなく、オーナーが手数料を取ると違法賭博になるらしく、モリーたちの稼ぎはチップ(こころづけ)だけです。日本円にすれば億単位?と、目が回るような数字が飛び交っていましたが、いくらなんでもチップだけじゃ無理でしょと見ていても分かるくらいでしたので、結局、ついにモリーも手数料取ることに、ただ、あのシーン、ディーラーが勝手にポーカーチップを自分の方によけていましたが、客に言わずに手数料って取っちゃっていいんですかね?

それはともかく、そこに入るためにはまずはモリーに認められなちゃいけない、入るためには最初にかなりのお金が必要でそれを預けなくてはいけない、仮に負けがこんでくればモリーに借りなくてはいけない、馬鹿な男たちがモリーの手のひらで遊んでいる図式なわけです。

そうしたいろんな馬鹿な男たちが描かれているのも見どころですが、この映画、色恋シーンやエロいシーンが一切ありません。これは意図的に排除されているのですが、それによって、モリーのインテリジェンスが際立ってきます。

男たちがポーカーをやっている時にモリーが何をしているかといいますと、いつも MacBook を開いて、男たちの金の出入りをつけたり、帳簿をつけたりしています。

最初にバイト先で手伝いを始めた時に、MacBook を開いていて、オーナーから金の出入りをちゃんとつけているか(という意味だったと思う)と尋ねられ、「表計算ソフト」と答えていたのには笑ってしまいました。おいおい、男たちはそんなことも知らず、表計算も使えないのかよ?(みたいな…)

こりゃ、話を端折らないといつまでも終わらないですね(笑)。

いったんまとめますと、モリーのポーカールームは、モリーに認められた金持ちの男たちしか入れない、決して性的なものを武器にしない、とはいっても映画的にはかなりボディが強調された見せ方をしていましたが、まあそれは許容範囲として、基本的には知性あふれるモリーというものを全面に出して描かれ、男たちはそこで遊ばされているということになります。

つまり、モーグルでは挫折したとはいえオリンピックに出られるかというところまでいき、その後もロースクールへいき法律家にもなれたモリーが、なぜポーカールームのオーナーを始めたのか? 

権威的で抑圧的だった父親への反発、反抗心から、社会的成功者である男たちを支配できるこの道を選んだと、ラスト近く、モリーと父親が会話する場面で、精神分析医(かな?)の父親がモリーの行為を分析してみせていました。

そういえば、モーグル選手時代、モリーがまだティーンだった頃ですが、家族のディナーのシーンで、ふたりがフロイトがどうのこうのと、やや言い争い気味に会話するシーンがありました。それらしき前ぶりがしてあったということですね。

で、この父娘関係のパターン、実は、現在のシーンの弁護士チャーリー(イドリス・エルバ)と娘ステラ(だったと思う)にもモリー父娘とほぼ同様の親子関係を反映させて、更に重層的に見せようとしています。

チャーリーはステラを厳格に、というより教育パパですかね、もちろん愛情を持ってですが、厳しく育てており、それをわざわざモリーの前で見せたりするわけですから、さすがに、これは何かあるな?と思ってみていたんですが、結論を書いてしまいますと、最初チャーリーはモリーの依頼を断っていたのですが、徐々に立会人程度の立場から弁護人になり、ついには検事たちの前でモリーを擁護する大演説をぶつところまでいくわけですが、その理由は、娘ステラから弁護してあげてほしいと、そして回顧録「モリーズ・ゲーム」を読んで、なんでしたっけ? なんとかだったと言われたからだと語るわけです。また、同時に自分も今回の件(モリーの裁判)で父娘関係について学ぶところがあったと言わせていました。(ここ、ちょっと自信がなく、私の創作かも知れません)

といったわけで、この映画は父娘関係の和解というテーマをラストに持ってきており、裁判の判決が言い渡される直前に公園のベンチでふたりが会話するシーンを入れています。

このシーン自体も精神分析医のカウンセリングみたいなシーンで、父親が、確か3つの質問をして、モリーが答えるようなパターンなんですが、実際には答もすべて父親が語っていたと思います。そのひとつが、上に書いた娘モリーの行動分析であり、後の2つはちょっとはっきりしないのでいい加減ですが、自分はダメな父親だったか?と尋ねたことに、モリー自身も含め3人の子供を立派に育てよくやったと自画自賛みたいなことを言っていたと思います。

そしてもうひとつが、これもいい加減ですが、お前は愛されていないと思っていたのかと言ったことに、これも父親自身が、お前は意識下に閉じ込めているが、5歳の時に私の不倫現場を見ている、それがトラウマになって私に反抗していたのだと、見事にフロイト的精神分析をしていました。

なんじゃこりゃ。

という、やや中途半端なフロイト心理学の映画だったというわけです。

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