女は二度決断する

単なる復讐物語にしかみえない。

ファティ・アキン監督の映画は、 「愛より強く」以来、「トラブゾン狂騒曲」というドキュメンタリーをのぞいてすべて見ていますが、本人がトルコ移民二世のドイツ人ということからでしょう、トルコ系としてのアイデンティティに関わる物語がほとんどで、描かれる社会もトルコ系の俳優を使ったトルコ系コミュニティが中心でした。

それが前々作の「消えた声が、その名を呼ぶ」から、製作上の制約からかもしれませんが、かなり変わってきており、名の知れた俳優を使い、物語もわりと一般ウケしそうな内容になってきているように感じます。 

監督:ファティ・アキン

公式サイト

この映画「女は二度決断する」は、主演に、ドイツ人ではありますがハリウッドを中心に活躍しているダイアン・クルーガーをむかえて、これまであまり前面に出して描くことはなかったヨーロッパ(ドイツ)における移民への偏見や差別を扱っています。

物語は単純で、ドイツ人のカティヤ(ダイアン・クルーガー)が、夫であるトルコ系移民のヌーリと子供をネオナチに殺され、いっときは裁判による裁きに期待は寄せますが、証拠不十分で無罪となってしまい、自ら復讐するという話です。

当然ながら、ネオナチの行為には、上に書きました偏見や差別があるわけですので、この映画の主たるテーマがそうであるように書きましたが、映画自体は偏見や差別そのものを描いているわけではありません。

描かれるのは事件だけです。ナチズム信奉者のドイツ人男女がトルコ人コミュニティを狙った爆弾テロを実行しますが、犯人たちがどんな思想を持ち、どんな考えを持っているかということを、つまり偏見や差別とは何であるのかを描いているわけではありません。

もう少し詳しく書きますと、(正直、あまり意味は感じられませんが、)映画は3つのパートに分かれており、そのひとつ目が「家族」、カティヤの夫ヌーリ(ヌーマン・アチャル)はハンブルグのドイツ人コミュニティ(だと思う)でいろいろな斡旋業のような仲介業のようなことをやってそこそこ裕福に暮らし、ふたりの間には6歳の息子がいます。

ある日カティヤは、友人と(多分)トルコ式の公衆浴場へ行くためにヌーリの店に息子を置いて出かけるのですが、戻ってみれば、ヌーリの店の前で爆弾が爆発したとのことで夫と息子を亡くしてしまいます。

実は、カティヤはヌーリの店から立ち去る時に店の前に新品の自転車に鍵もかけずに駐輪していく女性の姿を見て、「盗まれるわよ」と声をかけていたのですが、これが犯人だったのです。

で、この「家族」パートでは、その後のカティヤの失意と喪失感が描かれます。

この映画、ほとんど主演たるダイアン・クルーガーの映画ですので、他の人物についてはほとんどそのバックボーンなどは描かれず、このシーンでも、カティヤの母親とその恋人、そしてヌーリの両親、この二人はクルド人であると言っていましたが、いずれにしてもその事実以上は注目されることはありません。

唯一、ヌーリの過去については、事件を複雑化させるために必要だったのでしょう、映画の冒頭で、ヌーリが大麻でしたかの所持の罪で服役中に刑務所でカティヤと結婚式をあげるシーンを入れていました。

つまり、初期の段階では警察は麻薬がらみの抗争事件ではないかと踏んでおり、それに対しカティヤは自分が目撃した自転車の女性をネオナチだと主張し、受け入れられず、失意のままカティアが自殺未遂をするという展開になっています。

この自殺未遂はかなり違和感を感じますが、まあとにかく、このパートの最後にネオナチの男女が逮捕され、次のパート「正義」に移ります。

この「正義」パートはすべて裁判シーンです。このパートのポイントは、(正直、あまりないのですが、)ネオナチの男性の父親が、自分の息子が犯人だとわかっていながら通報したことをカティアが知り、そこにこんな社会でもかすかな希望のようなものが見いだせるように描いていることと、カティヤ自身も麻薬所持のために自転車に関わる証言の信憑性を疑われ、結局、証拠不十分で無罪となってしまうことです。

このパートでも、たとえばネオナチの弁護士をなんとも憎たらしいキャラクターに作るなど、興味をそそられるところもあるのですが、結局、徹底してダイアン・クルーガーがフィーチャーされているがために映画としてはかなり一面的な作りになっています。

そして最後のパート「海」です。

正直、なぜ海? という感じではあるのですが、海というのはギリシャの海で、実は裁判で、ネオナチたちは事件の当日ギリシャのホテルにいたというアリバイを主張しており、そのホテルのオーナーがギリシャの極右勢力の一員であり、そのつながりでそのオーナーが偽証し、このパートでは、カティヤが、ギリシャに滞在しているネオナチの男女を追って来るという展開になっています。

こうして主なストーリーを書いていて思うのですが、なんだか取ってつけたような物語のように感じます。もちろん、移民排斥、偏見、差別、極右、どの問題も切迫した問題だとは思いますが、ただその表面的な事実だけを並べて描いたところで、それは新聞やネットで、ドイツで爆破事件があった、テロがあったと知ることと変わりはなく、そこから何かを感じることはとても難しいことだと思います。

話がそれてしまいました。カティヤは裁判に失望し、自ら復讐するためにネオナチたちをギリシャまで追ってきたわけです。

で、カティヤはネオナチたちが夫と子供を殺害したと同じ方法、同じ製造方法で作った爆弾をネオナチたちの車の下に仕掛け、その帰りを待ちます。

しかし、カティヤに迷いが生じます。映像的には、一羽の鳥が(どこだったかに)とまるカットで表現していましたが、その後の自分自身の行く末を考えたのか、もっと抽象的な正義の観念にとらわれたのか、とにかく一旦その計画を中断します。

(私が)この映画を薄っぺらく感じるのは、この後のカティヤの迷いや次へのまさに「決断」の深さや重さが描ききれていないと思うからです。

次の日(だと思う)、再びカティヤは爆弾を抱えネオナチたちのもとへ向かい、深呼吸して車(キャンピングカー)のドアを開け乗り込みます。

画は車全体をとらえたカットとなり、爆破されます。

実際にこうしたことがあるかないかではなく、映画として、これは物語を作り過ぎで、ある事件があったとすれば、その事件の事実の羅列、こうしたことがあったと描いているに過ぎなく感じます。

ドイツにおいてトルコ人コミュニティのおかれている環境は社会的にどうなのか、ドイツの極右勢力は何をしようとしているのか、ドイツ社会はそのことに対してどうしようとしているのか、それを描けとはいいませんが、その視点が見えてこなければ、仮にその行為がテロに対する行為であっても、このラストは単なる復讐でしかありません。

どちらかといいますとファティ・アキン監督はストーリーテラーですので、主演俳優ひとりで見せる映画ではなく、複数の俳優たちの個性を活かしながら物語を紡いでいく映画作りに戻るべきだと思います。

これが、ファティ・アキン監督が、前々作の「消えた声が、その名を呼ぶ」から変わってしまったと思う理由です。

そして、私たちは愛に帰る (字幕版)