そんなには褒めないよ。映画評

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「わたしたちの家」2017年PFFアワードグランプリ受賞作、見えても見えなくても変わらない

昨年2017年のPFFアワードでグランプリを受賞した作品が劇場公開されています。詳しく調べたわけではありませんが珍しいことなんだろうと思います。それに、そもそもが東京藝術大学大学院の修了作品として制作された映画ということですので、相当注目されている若手監督ということなんでしょう。

今年のベルリン映画祭のフォーラム部門でも上映されたそうです。

監督の清原惟さんは1992年生まれとありますので26歳くらいかと思います。

 

監督:清原惟

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公式サイト

 

公開劇場の紹介を読んで見に行きましたので戸惑うことはありませんでしたが、同じ家で直接的には関係のないふたつの物語(というよりも時間かな?)が進行する映画です。

 

さらに、そのうちのひとつには謎がいっぱいあるのですが、一切説明されることはありません。今となっては何も知らずに見た場合にどうであったかは分かりませんが、おそらく説明されないことで苛つくようなことはなかったとは思います。なぜなら、登場人物、特にその家の住人透子が最初からそうした空気を放っていましたので、ああそういう映画なんだなと違和感が生まれることはないと思います。

 

二つの物語が最後まで出会うことはありませんが、かすかな関連性をもたせて描かれています。たとえば、ひとつの物語の進行中にもうひとつの声や音がかすかに聞こえてきたり、割とキーとなっているモノが別の物語に移行したり、障子に指で穴を開けて覗く行為がふたつの物語でシンクロしたりします。

 

いずれにしても、ふたつの物語がどういう関係なのかとか、どうつながっているのかということを考えてもあまり意味がありませんし、それを伝えたい映画ではないように思います。

 

たとえば家にいて、ふっと何か今ここのものではない音が聞こえたりする感覚は誰にでもあります(ないか?)ので、そうしたところから発想された映画なのかなと思いますし、その音は過去(の住人)からのものかも知れませんし、未来から来たのかも知れませんし、あるいはまったく違った次元が存在しているかも知れないと考えたりすることは物語を生み出す上でとても重要なことだと思います。

 

と思って見ていたのですが、違っていたようです(笑)。

 

インタビューがありましたので読んでみましたら、

複数の物語がひとつの映画のなかに同居している映画をつくりたい、というアイデアが最初にありました。それは、修了制作を始める前からずっと考えていたことです。そのアイデアをどう具体化していくかというときに思い浮かんだのが、フーガという音楽の形式でした。フーガは独立した複数の旋律が集まってひとつの曲になるという形式です。それぞれのメロディラインが重なり合っていくなかでハーモニーが生まれる。同じことを映画でもできないかと考えました。 

というのが発想の源のようです。

 

ただ、フーガの理解がちょっと違うような気もするのですが、それは置いておいて、異なったふたつの物語を同じ場所でやりたかったということのようです。

 

ひとつは母子の物語です。中学生のセリは母親と二人で暮らしています。父親は理由は語られませんが失踪したとのことです。セリにはその年令特有の物憂いさがありますが、友達もいますし、14歳の誕生日会を家で開いたりしていますので、特別問題を抱えているようには描かれていません。ただひとつ、母親には付き合っている男性がおり、そのことを内心許せないようでもあり、誕生日会では、その男性のワインにタバスコ(?)を入れて意思表示をしたりします。

 

ラスト近くで、母親がその男性と「結婚しようと思うの」と言いますと、「お父さんはどうなるの?」と返していました。

 

もうひとつ、友達と海辺を歩くシーンがあり、そこをわざわざ「秘密の浜」と表現しており、ラスト(だったと思う)草むらを掻き分けてその浜辺へひとりで行くシーンもあるのですが、この意味合いがもうひとつよく分かりませんでした。

 

結局、こちらの物語からは、14歳のセリの不安や失望のようなものが見えてくるということかと思います。

 

こちらは、まあ言ってみればよくある話なんですが、もうひとつの方は、まずありえない話で、その同じ(つくりの)家でひとりで暮らしている透子が、フェリーの中で出会った記憶をなくしたさなを自分の家に住まわせるという話です。

 

こちらの物語は、さながなぜ記憶をなくしたのか、透子が何をしている人物なのか、なぜ簡単に「うちに来れば」と同居させたのかなどなど何も分かりませんし、最後まで説明的なことは語られません。

 

それでも結構自然に仲良く(というのも変ですが)暮らすことに違和感はなく、というのが最初に書いた透子の自然なミステリアスさゆえなんですが、それが意図したものなのか、俳優(俳優名が分かりません)のキャラクターによるものなのかは分かりません。

 

この透子のミステリアスさは、どこかの建物でよくわからない男に何かを渡すシーンがあり、放射能がどうこう(だったかな?)などと妙に浮いたセリフとスパイものもどきのシーンがありましたので、何かを考えてのことだと思いますが、これもよく分かりません。

 

そしてもうひとりよくわからない男性が出てきます。よくわからないのに書いても仕方ないのですが、さながたまたま(かどうかも不明)喫茶店で出会った男がおり、ある夜、突然訪ねてきて、家に入り込み、その後どうなりましたっけ?(笑) 男だったか、透子だったか、どちらかが知った人物のようなセリフがあったような、なかったような…(笑)。

 

という映画で、最後にさなが持っていたプレゼントのような箱がセリの物語の方へ移行しますが、おそらくこれはオチとして考えられたことで何か意味を考えてのことではないでしょう。

 

ということで、率直な感想としては、発想は面白いけれどもそこでとまっている感じです。映画なんですから、次元が違おうが、幻想であろうが、同じ家に異なった世界があること自体に疑問を抱くことはありませんが、そうした世界を提示するだけでは何も生まれない、ああ違いますね、提示しそこから何かを生み出すように作るのが映画なんだと思います。

 

あるいはこういうことなのかな、たとえ親子であれ、人は自分じゃない誰かのことをわかっているわけではなく、それはまったく他人でも同じことで、さらに言えば、記憶があるない、つまり過去など人間関係にとってさして重要なものでもなく、見えなくてもそこにいると感じる存在と差異はない、ということかな?

 

散歩する侵略者

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