馬を放つ

キルギス発。言葉を得て文明をもった人類の永遠の矛盾

キルギスの映画です。

予告編を見た時に以前なにか見たことが…、と漠然とした記憶が蘇っていたまま調べもせず見に行ったのですが、主演のアクタン・アリム・クバトさんを見て思い出しました。

明りを灯す人」でした。同じく監督、主演の映画です。

読み返してみましたら、楽しめる映画だと言いつつも内容についてはそっけないことを書いていて反省です(ペコリ)。

あまり細かくは記憶していませんが、画が浮かんできますのでいい映画だったと思います。

監督:アクタン・アリム・クバト

公式サイト

その前作は、自然豊かで、質素ではあっても豊かな暮らしを営んでいる村に、都会から、村を発展させ皆を幸せにしてやるという男がやってくることで起きる騒動を、のどかな雰囲気の中で描いていたのですが、この映画では、整備された道路を車が走り抜けるカットもあり、また、同じような村であっても裕福になった人物が登場するなど、キルギスの山あいの村にも否応なく時代の波が押し寄せているようです。

そうしたなかで失われていく伝統、祖先から受け継いできたものを失っていくことへの哀感のようなものがにじみ出た映画です。

監督もそのことを語っています

経済的な面と文化的な面は、平行している関係でなければならないと思うのです。こうしたことはキルギスだけに限ったことではなく、グローバリゼーションが進んでいるために世界中で起きていることではないでしょうか。しかし、必ずしも古い生活に戻った方が良いということではありません。変わっていく社会のなかで、自らのルーツを大切にし、自分は誰であるかを考えることこそが重要であると思うのです。そうしたことをこの作品で描きたいと思いました。 

深夜、ケンタウロス(監督自身)が、ある厩(厩舎)に忍び込み馬を解き放つシーンから始まります。後から分かるのですが、村の裕福な人物が競馬用に高いお金を出して買った馬です。ケンタウロスはその馬に乗り、夜どうし駆け回り野に放ちます。

ケンタウロスは馬を盗もうとしているわけではなく、昔からの言い伝えに反する行為に抵抗しているということです。

その行為が何であるかははっきりとは語られていませんでしたが、私が理解したところによれば、馬は天からの授かりものであり、それによって自分たちは遊牧民としてやってこれた、その馬を利用して財を成すようなことをすれば天から罰せられるというようなことだと思います。

具体的には競馬という言葉しか出てきませんでしたが、おそらく象徴的な意味で「馬」が語られているのであって、もっと広い意味での経済発展、多くの場合それは伝統や自然というものを破壊していくわけですので、そうした価値観への疑問を投げつけているのだと思います。

映画の軸となっているのはその馬の件ですが、ケンタウロスの妻がろう者であることと絡めて子供(4,5歳位?)が未だ言葉を話さないことと、もうひとつ信仰の問題、イスラム教への懐疑(のようなものかな?)のも同時に描かれて物語は進んでいきます。

子どもが言葉を発しないことについては、ケンタウロスにしても妻にしても、もちろん気にはしていますが過剰に悩むようなシーンはなく、妻がケンタウロスにあなたがもっと話しかけてと願うシーンや隣村の占い師(違う字幕だった)のようなところへ行ったりするシーンがあります。ケンタウロスは家族思いで子煩悩な人物らしく、子供とよく遊びますし家庭内のシーンはかなり多いです。 

それなのに、これがよくわからないのですが、ケンタウロスは未亡人がやっているマクシム売りの露天によく通っており、結局本人にはその気はないようなのですが、映画的にはややその気があるような描き方(見せ方)がされています。おそらくドラマづくりのためだとは思いますが、その女性から思いを告げられたりするシーンもあります。

結局そうした素振りから村人には浮気を疑われ、妻に告げ口され、妻は子どもを連れて去ってしまいます。

馬の件に話を戻しますと、盗まれた馬は結局発見され持ち主に戻されるのですが、犯人を見つけ出すために、ある人物が新たに馬を買ったという話を村中に広めておびき出す計画が練られます。

何も知らずに馬を放とうと忍び込んだケンタウロスは捕まってしまいます。

ここが私には思わぬ展開だったのですが、捕まえた側の裕福な人物はケンタウロスの(どういう関係かよく分からなかった)親戚で、その後の二人の対話がある種クライマックスになっています。

その相手は、お前は私が裕福になったことで嫉妬しているかもしれないが、自分は親戚だということでいつも気にかけてきた、50歳になっても独り身だったお前に妻を世話した、そして子どもも授かり幸せにやっているではないか、なのになぜこんなことをするのだと問いただします。

それに対し、ケンタウロスは馬に関わる古くからの言い伝えを涙ながらに訴えるのです。

相手は、その訴えに言い返すことが出来ません。良くないと思いつつも結局時代に流されてしまう、ごく一般的な現代人の象徴のような人物でしょうか。

で、ケンタウロスは直接民主主義的な村の会議、ソ連時代の共産主義の名残なのか古くからの村民会議のようなものなのかよく分かりませんが、長老のような人物が議長を務めてケンタウロスをどうするべきか話し合います。

結局、親戚の進言もあり、ケンタウロスは罪人とはならず、その親戚の厩舎で働くこととメッカへの巡礼が義務付けられます。

このイスラム教の扱いですが、はっきりとはわからないのですが、なにかを意図して描いている風なところがあります。

映画の早い段階で、その裕福な親戚のところへイスラムの聖職者と思しき人物がメッカへの巡礼を進めることを口実に、その費用を寄進して欲しいと訪ねるシーンがありますし、うまく(字幕を)読み取れなかったのですが、その聖職者と思しき人物のひとりが、村会議の後にケンタウロスを丸坊主にしながら語ったことがなにか意味深であったり、またその後、ケンタウロスが礼拝中に抜け出して、その礼拝場所が昔は映画館だったらしく、(突然ですが)映写技師だったケンタウロスは映写室から礼拝中に(馬が駆ける映像の)映画を流すのです。

イスラムに対して何かがありそうですがよく分かりません。

とにかくもラストです。

ケンタウロスは村から追放になってしまいます。今こういうことがあるのかどうかは分かりませんが、原始的な村落ではこういうこともあったのでしょうし、異端は排除されるということですから、考えてみれば怖いことですよね。

で、ケンタウロスは村から出ていく途中、馬たちが運ばれていく車を発見し扉を開けて放ってしまいます。追われたケンタウロスは川に逃げ込みますが、後ろから撃たれてその場に倒れてしまいます。

場面は変わり、吊橋を渡る妻と子ども、子どもがケンタウロスが倒れたこととシンクロして倒れます。そして「お父ちゃん!」と叫びます。

思わず涙ぐんでしまいました(笑)。

もうひとつ気になっていることがあります。その吊橋は何度か出てくるのですが、最初は、仕事帰りだったか、ケンタウロスが渡るシーンなんですが、反対側からヒジャブで頭を覆ったイスラムの女性と数人の子どもたちが渡ろうとし、なぜか途中から引き返しケンタウロスが渡り切るのを待つのです。

行き違うことが出来ないのかとも思いましたが、その後のシーンでは行き違うシーンもありましたので、あるいは何かを意図しているのかも知れません。

ということで、監督自身も語っているように、決して昔に戻ったほうがいいということではありませんが、成長、発展、進歩といったものの抱える矛盾について考えざるを得ない映画ではあります。

明りを灯す人 [DVD]

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