BPM ビート・パー・ミニット

刹那的な人間関係を描いているのかもしれない

「BPM」Beats Per Minute. 

ダンスミュージックでは、この曲は BPMいくつなどと結構よく使いますが、1分間の拍数を表す言葉で、昔のディスコサウンドは 120くらい、トランス系の曲ですと140くらいはあるのではと思います。

原題はそのものずばり「120 battements par minute」で、映画の中でも、ハウス系の音楽で踊るシーンがありました。それにゲイ・カルチャーって、ダンス・ミュージックと結構親和性が高い印象です。

ただ、映画的ニュアンスとしてはそうした単純な意味だけではないかもしれません。 

監督:ロバン・カンピヨ

公式サイト

描かれているのは、1990年初頭の「ACT UP – Paris」というエイズ(を可視化する?)活動家団体のメンバーたちの様々なドラマ(人間模様)ということになります。監督自身が数年間その組織に所属していたということからの映画化ということなのか、ドキュメンタリータッチを意識したつくりになっています。カメラがよく動きますし、人物はかなりアップでとらえたシーンが多いです。

「ACT UP」という団体については、公式サイトにも詳しく書かれています。

ファーストシーンはその抗議行動から始まります。政府関係の(と思しき)団体の集会に突然押しかけ、数人で壇上に上がり、血液に見立てた赤い液体を投げつけ、その団体の主催者と思しき人物に手錠をかけてしまいます。

1980年代半ばの日本でのエイズパニックを思い返してみれば、数年の時期の違いはありますが、海外ではこうした抗議活動が行われおり一定程度の市民権を得ていたというのはまるで別世界の話で、この時期、日本では、国内初のエイズ患者が死亡したと報道されて大騒ぎ、エイズと HIVの違いもわからないまま、エイズという言葉だけが独り歩きして、イコール売春による性行為や男性の同性愛による性行為と直結されて差別や偏見まで生み出してしまっていました。

もちろんこの映画のフランスであっても偏見はあったでしょうし、実際映画の中でも、ACT UP が HIV感染を防ぐために高校生にコンドームを配布しているシーンで「ホモ(字幕)」と侮辱する言葉を浴びせられるシーンがありました。

ただ、それ以外のシーンは ACT UP のメンバーたちのドラマと抗議活動が全てであり、差別や偏見を描いた映画ではありません。

冒頭のやや過激な抗議行動のシーンと並行して描かれる ACT UP のミーティングシーンが、ACT UP がどういう組織であるかをよくあらわしています。

大学の講義室のようなところで行われるのですが、新しく加わろうとしているナタン(アルノー・ヴァロワ)たちにメンバーのひとりがミーティングルールを説明します。記憶しているところでは、人の話にかぶせて話してはいけない、拍手は話を遮るので代わりに指パッチンで表現しなくてはいけない、タバコは廊下で、また廊下で議論してはいけないなどであり、議論は二人のファシリテーターが民主的にコントロールしていくとのことです。

で、冒頭の抗議行動は、それに対するミーティングのシーンと(編集によって)並行して描かれていきます。この抗議行動のリーダーだったソフィ(アデル・エデル)が、手錠をかけるような行為をしたショーン(ナウエル・ペレーズ・ビスカヤート)の行為は行き過ぎだったと非難します。

議論はかなり活発ですので当然言葉も多くなり、字幕を読んでいては追っつかないこともあり、さらにエイズについての知識が必要と思われる内容もありますので、誰と誰が対立しているなどといったことがなかなか把握しきれず大変なんですが、次第に分かってくることは、ショーンは今のやり方に不満を持っていることと、それが自らが HIV陽性であることからの焦りだということです。

映画の中では、説明的なことはほとんどありませんのでよくわかりませんが、ACT UPメンバーの構成はほとんどが男性で女性はかなり少数、ソフィーも何を目的に参加しているのかわかりませんし、ファシリテーターをしているひとりが女性なんですが、その人物も立ち位置はわかりません。女性で立ち位置がはっきりしていたのは、息子が HIVに感染しているのでという女性が親子で加わっていました。

ですので、映画では、ACT UP はかなりゲイ・コミュニティの印象が強いです。

特に後半は、ほぼショーンとナタンのラブストーリーになりますし、ふたりのセックスシーンも多くなります。

結局、エイズを発症したことからの焦りなんでしょう、ショーンはどんどん過激になり、ある種組織からも浮いた存在になっていきます。それに寄り添うのがナタンということです。

かなり印象に残ったシーンがあります。

ACT UP のリーダーと思しきチボー(アントワン・ライナルツ)は組織の中で穏健派的存在なのか、ショーンと対立している人物として描かれています。たとえば、ACT UP は、ある製薬会社が新薬の発売を制限していると主張しているのですが、それに抗議するためにその会社の責任者を件のミーティングに呼ぶことにします。これが実際にあったことであれば、そうした場に出てくるその責任者もすごいなあと思うのですが、それはさておき、そのミーティングはショーンの徹底的な攻撃によってとても議論にはならず、そのせいで責任者たちも苦笑いを浮かべながら帰っていきます。

で、その後、ショーンの状態が悪くなり入院するのですが、そこにチボーが見舞いにやってきます。ところが、ショーンはチボーを追い返していまします。

これは何を示しているのでしょう?

異なった考えを持っている者はたとえ死を目前にしても分かり合うことはできないということなのでしょうか。

実は、冒頭に示されたミーティングのルールは映画が進むに連れ、守られていないことが、多分意図的に示されているのです。製薬会社との議論もそのひとつですが、あるシーンでは、議論が白熱しショーンが廊下へたばこを吸いに行きますと、そこへ、確かソフィーだったと思いますが、加わって大声で議論し始めます。チボーだったか、もうひとりのファシリテーターの女性だったかが、うるさいと指摘します。

これはかなり意図的に入れられているシーンだと感じます。

ショーンとナタンの関係が映画のクライマックスをつくります。 

どんどん体調が悪くなっていくショーンに対して、ナタンは一緒に暮らすことを提案し、ショーンを退院させて一緒に暮らすことにします。そして、寝静まったその夜、すくっと起き上がったナタンは点滴の液に注射器である液体を注入するのです。

次の日、ACT UP のメンバーたちが沈痛な面持ちで集まってきます。もちろんチボーもやってきます。チボーは慰めるためでしょう、ナタンに寄り添います。

ナタンが今夜一緒にいてくれと言います。

チボーは、それはやるという意味かと尋ねます。

ナタンはそうだと答えます。

そして、ナタンはセックスを済ませた後、チボーの胸で号泣するのです。

難しい映画です。

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