ナチュラルウーマン

ロッカーの中にあったもの、それはマリーナがマリーナであるためのもの

むちゃくちゃ力強い映画です。

最近やたら耳にする、特にオリンピックシーズンでしたので毎日のようにテレビから流れてくる「勇気をもらう」という言葉を(嫌いだけど)あえて使えば、これほど「勇気をもらえる」映画、そして人物はいないでしょう。

映画の中では何も語られませんので詳しい性自認はわかりませんが、公式サイトにはトランスジェンダーとありますので、おそらく MtF だと思われるマリーナがまわりの偏見や差別に晒される物語です。

そのマリーナを演じているのがオペラ歌手のダニエラ・ヴェガさん、本人が MtF とのことです。

監督:セバスティアン・レリオ

公式サイト

監督は、「グロリアの青春」のセバスティアン・レリオ監督です。

マリーナ(ダニエル・ヴェガ)がトランスジェンダーであるかどうかということを問題にすることなく入るのがとてもいいです。そのあたりを少し詳しく書いてみます。

冒頭には、イグアスの瀑布の空撮シーンが入ります。

シーンが変わり、老年の男性(にみえるが映画では50いくつと言っていた)がサウナでマッサージをうけています。その後、男性はオフィスに戻り、秘書に白い封筒を知らないかと尋ねたり、辺りを探しますが、どこへ置いたか記憶がないらしく見つかりません。

またシーンが変わり、レストランのクロークで封筒と便箋をもらい、何かを書き付けています。そして、その男性オルランド(フランシスコ・レジェス)とマリーナがテーブルで向かい合うカットに変わり、ホールスタッフがろうそくの立ったケーキを前にバースデーソングを歌います。

マリーナの誕生日です。オルランドは胸ポケットから先程の封筒を出し、プレゼントだとマリーナに渡します。マリーナが封筒を開けますと、そこには「イグアスの滝へ行く券」と記された便箋が入っています。マリーナはオルランドにキスをします。

無茶苦茶おしゃれな入り方じゃないですか!

ところが、その夜、オルランドは動脈瘤(だったかな?)で倒れ、さらに階段から落ちたため体中に傷をつけたまま亡くなってしまいます。 

オルランドには妻と子どもがいますが、(おそらく)別居という形のままマリーナと暮らしているのでしょう。子どもは二人で、ひとりは年齢不詳(?)の男の人、そしてもうひとりは10歳くらいの女の子(孫なのかな?)です。

オルランドはテキスタイルの会社を経営しているようで、別居中の家族はかなり裕福に暮らしているようにみえます。

こうした環境であれば、この後マリーナが遭遇するだろう苦難が想像されます。

この映画のすごいところは、その苦難に怯むことなく真正面からマリーナに立ち向かわせるのです。どんなに屈辱的な言葉を投げつけられ、どんなに蔑むような視線を向けられてもマリーナは逃げません。相手が放つ憎悪に対して憎悪で応えるのではなく、相手を真正面から見つめ返すことでその憎悪をはね返します。 

そしてその時、人は自ら放つその憎悪が決して相手がゆえではなく自らの醜さが生み出す感情だと知るのです。 

この映画は、マリーナに言葉での抗議や反論を一切させていません。さらに言えば、おそらく意図的にだと思いますが、質問に対する答えさえ、その場面をカットしているように見えます。

たとえば、オルランドを運び込んだ病院の医師はオルランドに外傷があることから警察に通報するのですが、その外傷について、医師であったか警察であったか記憶が曖昧ですが、マリーナに理由を尋ねても、マリーナがすでに話したというニュアンスのシーンはあっても、マリーナが階段から落ちたからと説明するシーンはないのです。また、医師が警察に通報したわけにはもうひとつ、マリーナが病院からいなくなったこともあるのですが、2度ほど尋ねられるシーンがあっても、マリーナは答えようとしません。別に拒んでいるわけではありません。おそらくすでに説明したからなのでしょう。

そうしたシーンで何がみえるかといいますと、私(たち)は自分たちと違った「普通」ではない存在と相対した時、もうそれだけで色眼鏡で見てしまう存在だということです。

オルランドの家族たちは、最初はマリーナを排除することで抑制的に振る舞っていますが、マリーナが当然のこととしてオルランドとの別れを望んだりしますと、言葉でも行為でも途端に暴力的なります。オルランドの妻はマリーナに面と向かい「変態!」と侮辱し、息子はマリーナを車で拉致し、脅しをかけ、テープでぐるぐる巻きにして路上に放り出します。

担当の女性刑事は、自分はこういうケース、おそらく性的マイノリティ(の被疑者)という意味だと思いますが、自分はよくわかっているからと言いつつマリーナを被疑者扱いし、マリーナに外傷がないか調べるためにマリーナを裸にして写真を撮ります。

どう理解すべきか迷う場面がありました。

マリーナを被疑者扱いにして写真を撮る場面、もうひとりの男性刑事(鑑識?)が上半身から徐々に衣服を取るように言い写真を撮っていくのですが、下半身になり、男性刑事が女性刑事にその場を出るように言うのですが、女性刑事は拒否するのです。

自分は理解していると思い込んでいる者でさえ、自分たちと違った「普通」ではない存在に対し興味本位の視線を向けるということなんでしょうか、なかなか難しい映画です。

オルランドが亡くなってからは、ほぼ全編、こうしたシーンの連続です。

ただワンシーン、こうした緊張感からふっと気が抜けるとてもいいシーンがあります。

マリーナは歌手ですので、おそらくリサイタル(ラストシーンがそれ)のためだと思いますが、歌のレッスンに行き、老年の先生から「世間から逃げてきたのか?」と尋ねられ、「愛の意味を知りたくて…」と答えます。いくつかのやり取りはあるのですが、結局、先生は、愛は求めるものではない、与えるものだと言います。もちろん特別目新しい言葉ではないのですが、この映画の中では唯一癒やしの場面であり、その後、マリーナがヘンデルのオペラ「セルセ」からのアリア「オンブラ・マイ・フ」(という曲らしい)を歌うシーンには(私は)号泣してしまいました。

この映画のすごいところは見るものが立たされるポジションにもあります。

おそらく、マリーナに感情移入し偏見と差別に晒されながらも立ち向かうポジションに立ちながら見ることもかなり難しいでしょう。また、マリーナに汚い言葉を投げつけ侮辱する側を非難する側に立つことをそう簡単には許してはいません。

つまり、相当中途半端なポジションに立たされる映画なんです。

あなた(たち)だって、医師にも、刑事にも、そしてオルランドの家族にもなり得るものを持っているでしょ、と、スクリーンのこちらを見つめるマリーナの眼差しはそう語っているようにもみえるのです。

物語について書くことを忘れてしまいました。

「イグアスの滝へ行く券」はどうなったかといいますと、後半、オルランドの遺品である鍵を見つけたマリーナは、それがサウナのロッカーの鍵だと気づき、思い切って上半身を晒したまま男性用のサウナに入りロッカーを開けます。

かなり早い段階から、おそらくそのロッカーに白い封筒が入っているのだろうと予想して見ていたのですが、マリーナがそのロッカーを開けてみますと、映画は、そこに何が入っていたか、あるいは何も入っていなかったかを明示していません。ただ、その後のマリーナの行動を見ますと何も入っていなかったのでしょう。

おそらくマリーナは、そこでやっとオルランドの死を受け入れることができ、それでも生きていく決心をしたのだと思います。

そしてラスト、マリーナのリサイタルのシーン、「オンブラ・マイ・フ」を歌います。ダニエル・ヴェガさんが歌う動画は見つかりませんでしたが、予告編の映像で流れています。


ナチュラルウーマン – 映画予告編

エンドロールのバックにアラン・パーソンズ・プロジェクトの「タイム」が使われていました。


アラン・パーソンズ・プロジェクト/タイム Time

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