あゝ、荒野 後篇

ボクシングシーンがすごい!

前篇」を見て面白かったので「後篇」を見ようと上映スケジュールを見てみましたら、何と朝一と夜の2回しかなく、さらに朝は 8:45 から!?とやや怒りながらも、5時起きで公開初日に見てきました。5時起き? って、なにせ出かける前の準備に3時間かかりますので(笑)。

何やってんの?と言われそうですが、別に普通に朝ごはん作って、食べて、顔洗ったりトイレへ行ったりと準備しているだけです。

まあそんな他人の私生活などどうでもいいでしょうから、さっそく完全にネタバレ書きます。

 

監督:岸善幸

公式サイト

まずは基本の物語

新次(菅田将暉)は、幼いころ、自衛隊員であった父親が自殺、母京子(木村多江)は新次を置いて去り、その後は孤児院で育ったらしく、成長後は、兄貴分と慕う劉輝(小林且弥)や裕二(山田裕貴)らと振り込め詐欺をやっていたのですが、ある時(おそらく)仲間割れにより、新次と劉輝は裕二のグループに襲撃され、(多分ひとり殺している)その暴力事件のため、少年院に収容され、出院してきたところです。性格はいわゆる真っ正直(で単細胞的)だけれども手が出るのが早いタイプです。

建二(ヤン・イクチェン)は、自衛隊員(隊長)の父(モロ師岡)と韓国人の母を持ち、韓国で暮らしていましたが、幼いころに母が亡くなり、父とともに日本にやってきています。(おそらく)父の強圧的な性格と日本の生活に馴染めなかったのか、吃音で気持ちを言葉で伝えることが不得意、性格はおどおどしたところがあります。

出院した新次は、裕二への復讐を果たそうとしますが、裕二はボクシングの道に進んでおり、今では全く歯が立ちません。

完全に(気持ちが)打ちのめされた新次、そして父親の元を離れる決心をして、たまたまその場に居合わせた建二、そんな二人の前にボクシングで片目を失い、今は落ちぶれたジムを任されている堀口(ユースケ・サンタマリア)が現れ、二人にボクシングをやらないかと誘います。

新次は裕二に勝ちたいがために、そして建二は自分が弱い人間とすり込まれた自意識を乗り越えるためにボクシングにのめり込んでいきます。

そして、芽生える友情、そして、いつしか二人には友情を超えた何かが生まれていきます。

その何かに決着をつけるために、二人はリングの上でボクシングを超えた死闘を繰り広げることになります。

これが基本の物語で、それ以外はこの二人の関係を彩る二次的なものと言ってもいいと思います。

ラスト、死んだのは建二か?

ラスト、新次と建二の壮絶な打ち合いはかなりの見ごたえで涙もこぼれますし、どちらかが死んだとしてもおかしくないような終わり方をしており、その後、控室のようなところで横たわった誰かに白い布がかけられ、医師のような人物が死体検案書(だったと思う)に名前を「二木建◯」と「建」まで書くカットが挿入されています。

建二が死んだのかとも思わせますが、父親の名前は「二木建夫」であり、建二の試合を見ながら息を引き取っており、どちらともわからないように映画を終えています。

わざわざ名前を書くカットをアップで入れて最後の一文字を見せずに終えているわけですので、どちらとも分からないようにしたのでしょう。

原作を読んでいませんの分かりませんが、おそらく映画の創作だと想像します。

建二はゲイか?

おそらくゲイでしょう。

前篇の新次とのスパーリングのようなシーンで、意図せず入ってしまったパンチで新次が流した血を建二が包帯で拭き取るシーン、ん?と思うような演技と撮り方がしてありましたので、建二は新次が好きなんだなと思ったのですが、ただその時点では、その後どう進展するのか分かりませんでしたので、何となく記憶に残っただけでしたが、後篇では直接的ではありませんがそう思えるように描かれていました。

詳細はあまり映画的に重要ではありませんので省略しますが、建二がある女性に誘われホテルへ行き、その段になって建二が発した言葉は「あなたとはつながれない」ですし、ボクシングジムの土地持ちの二代目が、建二に目をつけ、引き抜いてマンション住まいさせるのも、いうなれば恋人(愛人?)として囲ったということだと思います。

ラストの新次との試合の客席、二代目の後ろには新宿二丁目的な人物も配置されていました。

なぜ 2021年の話なのに、ああしたはっきりしない描き方をしたかは分かりませんが、あるいは、直接的なシーンを入れないことで 60年代的「男臭さ」を残したかったのかも知れません。

その時女性たちは

明らかにこの映画は男たちの物語であり、多くの女性が出てきますが、誰ひとりとして人生を描かれている女性はいません。

当然ながら、新次の恋人となる芳子についてはそれなりに多くは語られてはいますが、3.11で震災に会い、母親を置いて出てきたと語ってはいても、それが一体どういうことなのか深く描かれることも語られることもありません。

芳子は、出会ってすぐに新次と性的関係を持ち、性的には開放された女性のように見えますが、新次に告白され新次を愛する女との立場になれば、新次一途的な女性となり、片や新次が芳子を見向きをすることなく、いわゆる男たちの社会へのめり込んでいっても、新次に何言うこともなく自ら去っていきます。

新次の母京子も、新次を捨てたことの葛藤を語らせてもらえる場面を与えられることもなく、ただひたすらボクシングジムのオーナーの秘書兼愛人(?)を演じているだけです。十数年ぶりかに新次と再会しても言い訳ひとつ語らせてもらえません。

芳子の母と思しき足に障害を持つ女性や建二をホテルに誘う自殺防止研究会の女性にいたっては、ただ、建二や片目が男性であることを見せるがための存在でしかありません。

ただ、こんなこと、非難しようとしているわけではありません(笑)。

1960年代、おそらくどんなに進歩的な男性でも、女性は、母であり、妻であり、恋人であり、あるいは愛人であり、それ以上ではなかったのでしょう。つまり、男との関係でしか語られることがなかったということです。

2021年をうたってもやはり映画もその時代のものだということです。 

実に演劇的人物配置

考えてみますと、人間関係が非常に狭い範囲の物語であることが分かります。

新次を捨てた母はボクシングジムのオーナーの秘書兼愛人となっており、新次の父親の上司で自殺の原因にもなった人物が建二の父親であり、建二の父親が実験台のようにされる「自殺防止研究会」のメンバーであり、そのリーダーの子どもを宿した女性が建二をホテルに誘い、新次の恋人芳子の母親(とは言っていないが同人物)が片目の行きつけの飲み屋で働いていて片目と関係を持ち、と言った具合に、相当にコイー濃密な人間関係の中で物語は繰り広げられます。

何とも演劇的世界だと思います。それも相当に 60年代アングラ的な。

で、この映画は何なのか?

基本的には、古き良き時代の「男の友情」あるいは「男の美学」的な映画でしょう。

ただ、たとえばラストの新次の殴り合いを見ている京子に「殺せ!」と言わせたり、とにかく全てのしがらみ的なものを捨てさせ「殴り合う」ことでしか先へ進めないのではないかと思わせたり、現実にも問題となっている社会的事象、震災からの復興、自殺、奨学金を自衛隊への入隊で帳消しにする経済的徴兵制、(意味不明な)爆発などを、特にどうこう語らずちらちらと見せていることにどういう意図があるのかがよく分かりません。

単なるエクスキューズかもしれませんし、あるいはアジテートかも知れません。

あゝ、荒野 (角川文庫)

あゝ、荒野 (角川文庫)