そんなには褒めないよ。映画評

ミニシアター系映画レビュー*沈黙する言葉

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汚れたダイヤモンド

監督:アルチュール・アラリ

(完全ネタバレ)ラスト10分のピエールの描き方が見事

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あさがくるまえに

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ブランカとギター弾き

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残像

監督:アンジェイ・ワイダ

アンジェイ・ワイダ監督の遺作、心に残る映画です!

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映画「三度目の殺人」(完全ネタバレ)観念が先走っては映画にならない

観念的に作り上げられた映画ですね。

テーマがあって、それをどう表現するかと書き上げられた脚本、映画ということです。一概に悪いというわけではないでしょうが、難しいでしょう。

特にこういう犯罪ものは観念だけでは成り立たないですよ。むしろリアリティにこだわり抜いた中から何かしら人間存在自体に関わるような、それこそ真理みたいなものがみえてくるというケースのほうが多いですね。

で、この映画のテーマは「人に人を裁くことはできるのか」「真実はひとつではない」こんな感じだと思います。

 

監督:是枝裕和

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殺人の前科がある三隅が、解雇された工場の社長を殺した容疑で起訴された。犯行も自供し死刑はほぼ確実。しかし、弁護を担当することになった重盛は、無期懲役に持ちこむため調査を始める。弁護に必ずしも真実は必要ない。そう信じていた弁護士が、初めて心の底から知りたいと願う。その先に待ち受ける慟哭の真実とは?(公式サイト

 

三隅(役所広司)が元雇い主の社長を殺すところから始まります。河川敷(多摩川だったかな?)で三隅が金槌で社長を殴り殺しガソリンを撒いて火をつけます。

 

そして三隅の顔のクローズアップ、頬に血が飛び散っており、それを手の甲で拭います。このカットは、ラストで重盛(福山雅治)に同じ仕草をさせることで、何かしらテーマ性を主張しているのでしょう。もちろん、重盛の顔には血はついていませんので、おそらく(失敗していますが)重盛を三隅と同じ地平まで引きずり落とす(上げる?)ことを意図したんだと思います。

 

この時、三隅の顔には凶暴性や放心状態は感じられません。おそらくこれも、ラスト、三隅と重盛が対峙する場面で、重盛が三隅のことを「器?」とつぶやくことに関連させた演出でしょう。

また、この対峙の場面では、接見室のガラスを使って二人の顔が重なったり離れたりという映像処理をして、これも同じように、裁く人間と裁かれる人間を同一地平に置くという演出だと思います。

 

どういうことか結論を書いてしまいますと、この映画の基本プロットは、「弁護に必ずしも真実は必要ない」と考える重盛が、三隅の殺人の動機は何か、つまり「真実」は何かということを心底知りたいと思いはじめ、調査の過程で、その「真実」が二転三転し、最後に漠然とながらもあることに気づくというものです。

で、そのあることが何かといいますと、結局、三隅の中にあるのは、一般的に殺人の動機と考えられる憤怒、怨恨、強奪などではなく、ただ人を裁きたかった、つまり、裁く立場である裁判官、同じく司法の世界で生きていることにおいて裁く立場である弁護士らを欺き、裁かれる立場である三隅が、裁判において、自ら死刑判決を下させるよう仕向けたということです。

 

「三度目の殺人」の意味は、三隅が犯した、過去の殺人、今回の殺人、そして自らを死刑にした殺人という意味です。 

 

監督はじめ制作者は、そこから「人に人を裁くことはできるのか」「真実はひとつではない」といったことが普遍的テーマとして浮かび上がってくるだろうと考えたんだと思います。

 

それがこの映画は観念的だという意味です。

 

率直に言って、こうした意図はほとんど失敗しています。

 

一番の問題は、この映画では「殺人」そのものが観念のままに終わっていることです。リアリティがないということとも少し違っていて、実在感がないといいますか、重さがないといいますか、演出だと思いますが、役所広司さんに三隅の心の空虚さを求めているせいで、過去の殺人にも、今回の殺人にもまるで重さが感じられません。

二つの殺人に重さが感じられなければ、自らを裁くことにも重さは生まれません。

 

三隅の供述が二転三転、映画の中ではころころ変わると表現されていましたが、まずひとつ目、重盛が初めて三隅に接見した場面で恨みや金欲しさでやったとさばさばと事も無げに答えさせており、それが底なしの空虚さを表現しようとしたことだとしても、実際には何だか優しい役所広司おじさんにしか見えません。

 

ここの三隅に、仮に空虚だとしても深さがないのが致命的です。

 

そして次には、被害者の妻美津江(斉藤由貴)との共謀説、これどこから出てきた話でしたっけ? ああ、週刊誌でしたね。美津江の「その件は…」メールがどうこうとか、三隅の口座に50万入金されているとかいうことで、三隅本人はこのことについてはっきりした証言はしてませんよね。

唐突である上に、適当に流しすぎです。

結局、被害者の社長が食品偽装をしていたかで、「その件」の口止め料として50万支払ったということです。

こういうことへの突っ込みの浅さが、映画全体を薄っぺらいものにしているということです。

 

続いて、被害者の娘咲江(広瀬すず)のために殺した説、これも三隅が言ったわけじゃなく、突然出てきましたよね。なんだ本人は全然ころころなんて変わってないじゃないか!?って言いたくなります(笑)。

この説はどういうことかといいますと、咲江は幼い頃から(いくつからって言っていたかな?)父親から性的虐待を受けており、一年前の雪の積もった日、そのことを三隅に打ち明けます。

え!?なんで、なんで? なんで突然三隅にだけ打ち明けたわけ?

映画でははっきりしたことは言っていなかった思いますが、おそらく、北海道生まれの三隅には娘がおり、その娘との思い出と咲江をダブらせたかったのでしょう。これもかなり適当に流されており、北海道ロケのシーンもありましたが、あれ、意味ありましたっけ?

 

結局、この咲江を救おうとしたことが殺人の動機のようなんですが、それにしても性的虐待や食品偽装を深く突っ込むこともなくドラマ作りのために持ち出している印象で嫌ですね。

 

で最後、咲江が法廷で性的虐待を受けていたと証言すると言い出したことを知った三隅は、自分は殺していないと証言を変えます。法廷で世間のさらし者になることが予想される咲江を守ろうとしたということです。

 

こういうケース、殺人事件の公判で被疑者が途中から殺人を否定し始めた場合、実際の法廷がどうなるのか分かりませんが、映画では、裁判のやり直しを強く求める現場検事、迷いを持ちつつ(と見えた)も同じくやり直しを求める重盛、やり直しても判決は変わらないとの思いから、また裁判経費(言葉は違う)の上からも続行を促す裁判官という図式を見せておき、裁判官の意図を察した上級検事に現場検事を説得させ、この時の重盛の立ち位置がよく分からないのですが、とにかく重盛も続行に同意し、そのまま裁判は続行され、三隅には死刑判決が下されるという描き方をしていました。

 

テレビドラマか!? と言いたくなるくらい薄っぺらいドラマで嫌になります。

 

ここから裁判制度の不条理を読み取ったところで何の意味もありません。

 

これ以上細かいところに深入りしたら2時間では収まらないとでも判断したのでしょう。何とも適当な流し方です。

 

とってつけたような「十字」の描写もありました。

 

殺人現場の焼け跡の「十字」、ガゾリンを十字にかけた?

死んだ小鳥を埋めた墓の「十字」の小石。

雪の上に「十字」になって転がる三隅と咲江。

重盛が「十字」路に立ちすくむラストカット。

 

おそらく「十字架」を連想させつつ、不確定をイメージさせるための「十字」なんでしょう。

 

海よりもまだ深く

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海街diary

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