母の残像

俳優の素晴らしさと丁寧な描写がひかります

ヨアキム・トリアー監督、ラース・フォン・トリアー監督の甥だそうです。ただ、監督紹介ではデンマークではなくノルウェー人となっています。

それにしても「ラース・フォン・トリアーの遺伝子を受け継ぐ」なんてのは、宣伝文句とはいえ、ちょっとばかりいただけません。

長編三作目だそうですが、才能が感じられます。こうした丁寧な人物描写が求められる映画を、他国出身のそれぞれ忙しいだろうイザベル・ユペール、ガブリエル・バーン、ジェシー・アイゼンバーグらの俳優を使って、自国ではないアメリカで撮るということは、それだけでもすごいことだと思います。

監督:ヨアキム・トリアー

著名な写真家であった母イザベルの突然の死から3年後、長男のジョナが実家に戻ってくる。イザベルの死には事故なのか自殺なのかなど不可解な部分が多くあり、当時まだ幼かった弟コンラッドにはその真相は隠されていた。父ジーン、ジョナ、コンラッドの3人は、イザベルの知られざる一面や秘密に戸惑い悩む。しかし、妻の、そして母の本当の姿が彼らの中で共有されるにつれ、その死を徐々に受け入れていく…。(公式サイト

この映画、何がどうしてどうなったといったこと、いわゆるストーリーのようなものをどうこうと語るような映画ではありません。たとえば、上に引用した「イザベルの死は事故なのか、自殺なのか」にしても、はっきりしたことは分からないまま終わっています。

さらに、コンラッドが見た夢なのか、あるいはコンラッドの書いた文章の一節なのか、ラストに突然登場するインドの修行僧のような老人と母親のシーンにしてもかなりの不可解さです。

結局のところ、この映画は何かを語ろうとしているわけではなく、今そこにある人間をそのままリアルに描こうとしているのではないかと思います。その意味では、登場人物みな気持ち悪いくらいに実在感があり、本当に人間ってこんなんだよねと思わせます。

人間って不可解なんですよ。

コンラッド(デヴィン・ドルイド)が、たまたま、ひそかに思いを寄せる女生徒を家まで送ることになった帰り道、なぜか突然涙をこぼしてしまったり、ジョナ(ジェシー・アイゼンバーグ)が、初めての子どもが生まれたばかりであるにも関わらず、なぜか妻の元に帰りづらく、ふっとした気持ちのゆらぎから元カノを訪ねたりするのも、妙に納得できたりするわけです。

少なくとも、コンラッドは、決して靴に彼女のおしっこがついたから泣いたわけではありません(笑)。あの涙がわからないと人間まだまだということでしょう(笑)。

あらためて考えてみれば、日本語タイトル「母の残像」への思い込みからか、ついつい男三人の、母であり妻であるイザベルへの追憶のような見方をしてしまいますが、少し離れてみてみれば、全体を通して映画が追っているのはコンラッドであり、父もジョナも、そのコンラッドが思春期から大人へ脱皮していく過程としての母への思いを通してイザベルの存在を再確認しているに過ぎません。

父ジーンが今最も心を砕いているのはコンラッドのことであり、ジョナの今の迷いは妻への思いに自信が持てなくなっていることであり、その意味では、実家へ戻ってきたのも、回顧展のための写真の整理なんてのは単なる口実で、逃げ出したくなったのかもしれません。

あるいは、こうも考えられます。

彼ら男たち三人にとって、イザベルは多くの時間不在であり、もともと三人には不確かな存在であったわけですが、それがある日突然永久にいなくなるわけですから、その空虚さといったらないでしょう。で、男たちはどうするか?

「爆弾よりも大きな声で」イザベルを呼び続けるしかないのでしょう。

それぞれ相手の女性には申し訳ないですが、ジーンにとっての同僚の女性でも、ジョナにとっての妻であっても、そしてコンラッドにとっての憧れの女性であってもイザベルの代わりはできないということかも知れません。

といった具合に、この映画、どのようにも考えれられるようにつくられています。

それがこの映画の凄さです。多少はイザベルの死は自殺だったのか事故だったのかといった興味もあるかもしてませんが、この映画が最後までしっかり見られる理由はそんなことではなく、ていねいな人物描写とリアルな人間関係がそこにあるからでしょう。

その点では明らかにヨアキム・トリアー監督は叔父であるラース・フォン・トリアー監督とは異なった視点で映画を撮っていますし、手法もタイプも影響を受けているとは思えませんし、あるいは目指しているところも違うのではないかと思います。

旧作「リプライズ」「オスロ、8月31日」が見てみたいですね。