サウルの息子/ネメシュ・ラースロー監督

ゾンダーコマンドたちが、サウルに子どもはいないと言っていましたが、あれは何を意味しているのでしょうか?

昨年のカンヌ、グランプリ作品です。先日のアカデミー賞外国語映画賞も受賞しているようです。それもあって混んでいたんでしょうか?

この映画、ゾンダーコマンドという「ナチスが選抜した、同胞であるユダヤ人の死体処理に従事する特殊部隊(公式サイト)」である主人公サウルを追ったものですが、映画の中で進行していくゾンダーコマンドたちの叛乱は実際にあったことのようです。

米国ホロコースト記念館のサイトに1944年10月7日「アウシュビッツでのゾンダーコマンドの蜂起」と記載がありました。

2015年のカンヌ国際映画祭のコンペ部門でグランプリを獲得。その新鋭監督とは『ニーチェの馬』で知られる名匠タル・ベーラの助監督をしていた38歳のハンガリー出身のネメシュ・ラースロー。これまでの映画で描かれた事の無いほどリアルなホロコーストの惨状と、極限状態におかれてもなお、息子を正しく埋葬することにより、最後まで人間としての尊厳を貫き通そうとした、一人のユダヤ人の二日間を描いた感動作。(公式サイト

映画ですが、私にはダメでした。

まず、 浅い被写体深度でサウル以外をぼかしたり、肩越しのクローズアップのままサウルを追っかけたりする撮影技法が鬱陶しく感じられて全く受け付けませんでした。

そうした手法、たとえばダルデンヌ兄弟の「息子のまなざし」はもっと徹底していますが、その手法ゆえに強い印象を残していますので、手法そのものに違和感があるのではなく、この映画では、カメラが、一体何の、あるいは誰の視線なのか全く分からない(感じられない)ということです。

サウルの背中から後頭部以外にはピントがあっていないわけですから、サウルの視線で見せる意図はないわけで、サウルの向う側にある、つまりガス室に送られるユダヤ人たち、そして山と積まれた死体をあえてぼかして見せないことを意図しているわけです。

私にはそれがなぜなのか分かりません

そもそも冒頭のワンシーンで嫌な予感がしたのです。

映画は、すべてがアウトフォーカスの画から入ります。やがてぼんやりした中から何かがこちらに近づいてきます。人です。次第にその人にピントが合い始め、フェイスショットくらいにカメラに近づきますとピタリとピントが合い、その男も立ち止まります。そこから上に書いたように、肩越しのショットのままその男の後頭部だけにピントが合ったまま男とカメラは動き回ります。

こうした手法が評価のひとつの要因になっているようですが、私にはわざとらしさが先に立ち、とても映画には入れませんでした。

そのわざとらしさは、ラストシーンのサウル(ルーリグ・ゲーザ)のほほ笑みにも言えることで、とても自然なほほ笑みには見えず、監督に微笑んでくださいと言われて微笑んでいるようにしか見えませんでした。

絶望ゆえのこわばった(ように見える)微笑みと捉えるべきかもしれませんし、ホロコーストを知らない者の植え付けられたイメージからの違和感かもしれませんが、ゾンダーコマンドたちが(今の)刑務所に収容された囚人にしか見えなかったのです。皆体格のいい体をしていましたし、確か最初の字幕では「数ヶ月で殺される」とあったように思いますが、そうした絶望感や悲壮感は感じられませんでした。そうした一線を越えた平常心と理解すべきなのでしょうか?

サウルがあんなにも収容所の中を自由に動けていいのでしょうか?

サウルが何らかの作業をするシーンで、中途半端なまま次へ動いていく、たとえば、最初のシーン、囚人たち(他の表現がいいかも)が壁のフックに掛けた衣服を、サウルが集めていくのですが、左の壁から2,3着取ったかと思ったら今度は右の壁に移動するって、毎日やっているだろう作業があんなやり方で、それも元気よく(みえる)手早くやるってのは、どう考えるべきなんでしょう?

なぜゾンダーコマンドたちはあんなにもサウルのことを気にかけ構ってくるのでしょう?

もうひとつ、ゾンダーコマンドたちがサウルに「お前に子どもはいない」と言うシーンが何度かありましたが、あれの意味するところは何なんでしょう?

もうひとつ思い出しました。

これは日本の配給に関することですが、ドイツ兵や囚人たちの台詞に字幕をつけていませんでしたがなぜでしょう? 多分、ハンガリー語やドイツ語やその他いろいろな言語が入り混じっていたのではないかと思いますが、あの字幕のつけかたは正解なんでしょうか? それに多言語の場合の字幕表記(丸括弧だったと思う)はあれでいいんでしょうか?

そうした違和感からくる疑問が次から次へと湧き上がってくる映画でした。