アジアの純真/片嶋一貴監督

私たちはもう怒り方も失ってしまったんでしょうか…

「反日映画」だの何だのといろいろ言われているらしいです。どうなんでしょう? 見たところ、そこまで描けているようには思えませんし、「反日」云々以前に、映画として見応えがないです。

そもそもこういう映画って、つくり手に「怒り」がなけりゃ成り立たないと思うのですが、片嶋監督や脚本の井上淳一さんに「怒り」ってものが本当にあるとは思えません。

なんだか、全てすべっているように感じました。そもそものことの発端、チマチョゴリを着た女子高生(韓英恵)がいきなりからまれて殺されるって、一体どういう発想?と思いますし、さらにそれを拉致問題と対立構造におくってのも理解不能ですし、毒ガス云々もツッコミ不足ですし、後半のボートで海に出るシーンとか、あんなんでいいの?と言いたくなりますし、その後、パレスチナ(?)へ行き、原爆を持ち帰る展開とか、幻想だかなんだか分かりませんが、すべて、こうすりゃ「怒っ」たポーズができるみたいな、自分自身は怒っていないのに、「怒り」の映画をつくろうとしている感じです。

在日=差別=怒り、あるいは、日本人=傍観者(悔恨)を前提にするのではなく、イコールそのものに迫り、少女の外へのベクトルと少年の内へのベクトルを濃密に描くことで「怒り」そのものに迫って欲しいものです。

いや、違うかもしれません。そもそも、二人とも怒る側にいるわけではなく、何もできないでいる高校生(笠井しげ)の立場にいるのかもしれません。やたら、このままでいいのか、立ち上がれ、みたいな台詞がありますが、あれは、見るものではなく、自分たちをアジっているのかもしれません。

「怒り」を失った、いや「怒り」方を失った時代の映画ということでしょうか…。