やがて来たる者へ/ジョルジョ・ディリッティ監督

子供の目線で世界を見れば戦争は起きない

褒めるとすれば、「静かに見据えた」とか「少女の目線で戦争を見つめた」といった言葉を使うことになるでしょうし、あるいは、8歳の少女マルティナ(Greta Zuccheri Montanari)の静かで力強いまなざしや表情を賞賛することになるのでしょうが…。

非常に分かりにくいです。映画の内容ということではなく、つなぎ合わされたそれぞれのカットの持つ役割がとても分かりにくいのです。「あれ?今の何だっけ?」と考えていると、それが解決がつかないうちに、また同じように「あれ?」と思わされ、それが最後まで続くという感じです。

当然、編集という作業は、映画において最も重要な、作り手の意図を表現するための手段(ともいいきれませんが)なわけですから、すべてのカットが、次へと続く連続したものである必要はなく、意図的に意識を断絶させる編集手法もあるでしょう。ただ、それもあまりに多すぎると、とても集中して見ていられません。連続性を断ち切る編集が意図的に行われていることなのか、あるいは力不足(スマソ)なのか、そのあたりがよく分かりません。

そういったつくりは、好意的に見れば、いろんなものが同距離に見えるような感覚、つまりそれを少女の目線で捉えたと言えば、そう言えなくもないのですが、どうなんでしょう? やたら集中力をそがれる印象を持ったのは私だけでしょうか…。

で、「マルザボットの悲劇(虐殺)」ですが、詳しいことは何も知らなく、ネットで調べてみても日本語情報がほとんどありませんね。ウィキもイタリア語や英語だけで日本語はありません。その程度の情報でこういった戦争犯罪にどうこう言うのも何ですが、私はこの映画は、この虐殺自体をうまく捉え切れていないような気がします。

まず、なぜドイツ軍(正確にはSSですから親衛隊ということですよね?)が、子供まで含め771名もの村人たちの虐殺におよんだか、私にははっきり分かりませんでした。当然、パルチザンをかくまっているとドイツ軍は考えたということなんでしょうが、想像は出来ても、あまり映画からは伝わってきませんでした。あるいは、単純な狂気ってことでしょうか? それも映画からは考えにくいですね。

ドイツ兵たちは、最後の虐殺以前にも、一度でしたか、二度でしたか、パルチザンを追って、村にやってきています。その度に、村人たちは同じように教会に逃げたり、山の穴蔵に隠れたりしています。それらと最後の虐殺の何が違うのか、ドイツ兵たちの何が違うのか、ドイツ兵たちに何が起きたのか、映画からは読み取れませんでした。ただ虐殺シーンにはSSの迷彩服でしょうか、一般のドイツ兵とは違った制服を着た兵士が何人かいたようには思いますが、それも明確な扱いには見えませんでした。

それを子供の目線で見ていると言えば、確かに戦争とはそういうものでしょうが、それでは、まるで、少女の目線で世界を見れば戦争は起きないと言っているようなものです。

それは、その通りなんですが、ただ、ナチス=悪といった図式では何も解決しないような気がします。